パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です

手話を会得したゴリラが言うには

むかし、動物系のテレビ番組でゴリラと手話でコミュニケーションのとれる外国人女性研究者の特集が放送されていた。ゴリラは知能が高くて、簡単な動作なら人間を真似てみることができる。彼女はゴリラとさも友人と過ごしているかのような親密さで一緒に食事をしたり、絵を描いたり、庭の草抜きをしていた。ゴリラもまた危害を加えるそぶりなど見せずに、彼女に愛情表現をしたり、人間のような振る舞いで共同生活を楽しんでい(るように見え)た。彼女はゴリラとの信頼関係を育むなか、研究の一環として手話でのコミュニケーションを試みた。たしかに、同じ種族(哺乳類とか、爬虫類とか、はたまた魚類とか)であれば同じ言語で話せるのかや、私たち人間のように生まれた土地の言語があるのかなど、動物と人間との違いにはいくつかの疑問が浮かぶ。動物との意思疎通が、これだけ発展と進化を遂げた現世においても成し遂げられていないということはつまり、なんか、すごく難しいことなのだとも思う。革新的な実験に興味がわいた。

ゴリラははじめ、彼女の手の動きをまじまじと見つめながら、手を挙げるそぶりを見せるが、細やかな指の動きまで理解することはそう簡単にはいかないらしかった。彼女は普段の生活の中で、何度も何度も手話とリンクする挙動をゴリラに伝え続ける。うちに、ゴリラはほんの少しずつ理解し、手話で会話ができるようになったのだ。これがただのエンターテイメントであり、フィクションであるに違いないなどといった野暮な意見は、今のところ聞き入れたくはない。最寄りに親しいゴリラがいないため、実践はむずかしくもあるにせよ、種族を超えた意思疎通の瞬間にいたく感動を覚えた。

話変わって私はとても「死」が怖い。怖くない人間などこの世に居ない気もするが、「死」を恐れる頻度が周囲の人間の中でとりわけ高いと感じている。たとえば夜、寝る前に必ずこのまま目が覚めなかったらどうしようと不安になって眠れなくなる。運転中、衝突されたらひとたまりもないなと頻繁に怯えている。高速道路で、まさに今心臓が止まったらという不安が脳裏をかすめる。喉に詰まらせて死ぬことを恐れて、正月に餅が食べられない。脱線する気がして、電車の先頭車両はなるべく避けて乗車したい。溺死が怖いので足のつかない水場には、近寄ることができない。自宅の火事を恐れるあまり、ガスコンロが爆発して死ぬ夢を何度も見る。強盗に刺される気がして、夜道は背後を見せずに歩く。誰かが命を落とすことが約束されているミステリーや戦争の物語には出来るだけ触れたくない。事件や事故のニュースを見るだけで気分が沈み、体調が悪くなる。

ただ普通に生きているだけなのに、どちらかといえば健康体なはずなのに、突如として不安に駆られることが多くある。この身が滅びあと、今ある意識が、自我がどこへいくのか想像がつかず怖くて怖くて仕方がない。人間は理解の及ばない事柄に対して、恐怖心を抱くと聞く。先に逝った人たちにどうにかして感想を聞き出せたらこの不安は消し去ることができるのに、それは叶わない。せめて残りの命の残数が分かれば、覚悟を持って死に立ち向かうことができるのに、それも許されないのだ。心霊的なそれはこの目で見たことがないため、信じることができないけれど、死んだ身内なら怖くはないはず。そっちの世界の様子や、亡くなる瞬間のことを少しだけ教えてほしいと強く思うのだった。

ゴリラと手話で会話ができるようになった女性は、ゴリラに生い立ちや、家族や、仲間のことをたずねる。会話を重ねていくうちに、女性はゴリラが「死」という概念を理解していることを知る。ゴリラが可愛がっていた犬が車に引き殺されてしまった際には、ひどく落胆し「何も話したくない」と手話で伝え泣いたのだそう。人間は、死んだあと身内によって葬儀が執り行われ弔う儀式が形態に違いはあれど、どの国にも用意されている。肉体と魂が離れ、魂は「あの世」へ行くと言い伝えられ、不要になった肉体は焼却され、土に埋められる。そこまでしてやっと弔いが完了する。人間以外の動物にも「死」は存在するものの、悲しみを抱くというのはにわかに信じがたかった。彼女は、ゴリラに死生観を問う。「あなたたちは死んだらどこへ行くの?」すると手話を会得したゴリラはこう伝えた。「眠る 苦痛のない 穴の中へ さようなら」

私はまだ死ぬことを恐れている。この恐怖を感じなくなる日はきっと来ない。いつか訪れる「その時」にゴリラの言っていることは本当だったと証明してみせよう。残念ながら、伝える術はないけれど。