パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です

私が有する救いについて

 音楽

幼い頃、親から譲り受けたCDプレイヤー。初めて聞いた音源は父から借りたザ・ビートルズ「1」。母の精神疾患により、定期的に叫び声がこだまし怒号が鳴り響く夜、決まって自室にこもっては、部屋の隅にうずくまり最大音量で音楽を鳴らしていた。胸が張り裂ける悲しみを背負った夜にブルースを、怒りで感情的になった夜にパンクロックを、喜び募る朝にバラードを、人を想いあたたかな気持ちを抱く夕焼けに、とびきりのラブソングを。そのようにして私は数多の風景と瞬間を彩る音楽に、身をあずけてきた。

煙草

20歳の頃付き合っていたが影響しているなんて人に話すにはあまりにも恥ずかしい。そんなものは遠い昔の記憶にすぎず、いつだったか闇に葬ってしまった。今はただ一人、自分の意思で吸っている。最近世間は喫煙者を排除しようという取り組みに熱心だ。最寄りの愛煙家によるところ「人よりも多くの税金を支払い、早く死ぬ可能性の高い私たちがどうして肩身の狭い思いをしなくてはならないのだ」という。全くもって同感だ。女なのに、女のくせに、吸うことによるメリットなど一ミリもないのに、なぜ煙を吸うのかと顔を赤くして尋ねる人間には到底理解の及ばない領域で、私は煙にすがりついている。煙がたゆたう瞬間に、ため息のような深呼吸のような深い呼吸が白く可視化される。ほんのすこしだけ自分の魂が腑抜けて、いつも吸い終わる頃にふと体が軽くなる。どこにも吐き出すことができなかった憤りを煙に、やり場のなく飲み込んだ言葉たちを煙に。あっけなく空へのぼる白い煙には、わたしにしか見えない特別な色がついている。

日記

14歳から11年間つけている日記。どこにでもある方眼ノートに、その日書きたい分の言葉を書きなぐる。書く日は不規則で、毎日書き連ねる日もあれば、半年ほど日記の存在を忘れてしまう日もある。4ページに及ぶ超大作を生み出す日も、ノート1/3ページ分で終了する日だってある。そんな日記にただ一つだけ設けているゆるぎないルールは「心突き動かされる出来事があった時のみ残すこと」日付の決められた日記帳を買ってみたこともあるけれど、3日と続かなかった。11年前の日記を時系列的に遡ることがささやかな趣味のひとつともいえる。もう忘れてしまった(当時の自分にとっては忘れたくなかったはずの)出来事を、その日の情景もろとも鮮明に思い出す。人は身長体重のほかに、文章や字体も成長と共に変化することを知り、その日強く感じた痛みや不安が日が経てばまるで、喜劇だったことを知る。それは手に取るタイムマシンのようで、安易に過去の自分に再会できる。どんな読み物よりも愉快で、愛おしいその日記にある過去の自分からの励ましに、時折つよく背中を押される日がある。書き殴ることで、片付けの行き届かない思考が整理される。どんな物事も客観的に眺められると、不思議と心が落ち着くのだ。なかには到底人様にお見せすることのできない罵詈雑言や、情事にまつわる出来事も含まれているので私が死んだら信頼できる友人に、どうか燃やして頂きたい。

はてなブログ

日記を電波の海に放り込んでみたかたち。このブログに書き連ねた文章のことを、いつしか褒めてくれるひとたちがいた。なにも誇れるものがないわたしにとって、文章を褒められることがなによりも嬉しかった。その経験が忘れられなくて、書きたいテーマが猛烈に思い浮かんだ時にだけ、更新される。少しだけ言い回しを背伸びして、物語に脚色して、自分だけが思い描く理想の世界観を、自由に創り出すことができる場所。ここに描く物語は、わたしの話であるようでいて、じつは全く別の世界のお話だ。ここの1番の購読者は、紛うことなく自分自身。満足のいく文章になるまで何度も何度も書き直す。大切なのは、語感と温度と美しさ。誰にも言わない夢の一つに「小説家」がある。

短歌

たった三十一文字で世界の見え方を180度変えられてしまった経験がある。コピーライトやCMなどの制約があるなかで放つ文章の輝きは底知れない。文章は簡単に重ねることも加えることもできるからこそ、極限まで無駄を省き研ぎ澄まされた文章には濃度の高い美しさが凝縮されている。小説とは異なり物語ではない分、詠む人それぞれの解釈が許されている。さらに、詠んだ時の自分が置かれている環境や立場や想いによって短歌は姿形をかえて私のそばに寄り添い続ける。何度同じ歌を詠んでも、解釈が異なるすばらしい特性をもっている。

Twitter

私の世界を広げたソーシャルネットワーキングサービス。狭く、薄暗かったわたしの世界の外側には自分と同じような境遇で、同じような時間帯に、同じような思考をもった人間がこんなにもいるのかと感動を覚えたのが高校3年生の冬。誰にも共感されるはずがないと諦めた感情を、顔も知らない誰かと共有する。その誰かは確かにこの世界のどこかに存在していて、画面の向こう側で同じように指先を滑らせている。私は決して一人ではないのだと、目に見える世界はほんのわずかな一部にすぎなかったのだと教えてくれた、音もなく穏やかにせせらぐ川辺のような居場所だ。

ストリップ

浅草ロック座と真砂座へ行ったことがある。自己肯定感の低いわたしにとって、究極の自負心を学ぶことができるカルチャーことストリップ。約3年前、女友達5人でみたあの華やかな景色が、今でも色濃く胸に焼き付いている。豊かな自己愛がないと、全裸で人前に立つことなど到底できるはずがない。自分の魅せ方を心得ている女性たちの艶やかな眼差しは、強く誇らしかった。いまだに、またあの景色がみたい。あの熱のこもった会場でひとときも目を離したくなくなるような経験を、またしたい。あの日みた輝きを目標にしながら、日夜自己愛を磨く訓練に勤しんでいる。成果はまだない。

そんな、私が有する救いの話。

あなたの救いはなんですか。