パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です

クォーターライフ・クライシス

昨日書いた記事の内容がそのまま固有名詞となって、心理学の観点から名前がつけられていたことに驚いている。と同時にごく一般的な感情であったことを知り、とても安心した。なんだ、私だけではなかったのか。かねてよりわたしは若さにさして執着があるわけではなく、年長者から見下されることがなくなるのなら早く成熟した大人になりたいとばかり願ってきたからか、30代という年齢についての焦燥感はあまり感じてはいなかったものの、確かにこのクォーターライフクライシスにある通りの未来に対する漠然とした不安にだけは常に駆られていた。

この記事にあったのはクォーターライフクライシスの只中に訪れる5つのフェーズについて

フェーズ 1:仕事、恋愛、あるいはその両者において、自分がした選択のせいで、閉じ込められてしまったように感じる。いわゆる「自動操縦」状態。
フェーズ 2:「ここから抜け出さなければ」と感じ始め、思い切って飛び出せばなんとかなるのでは、という思いが募ってゆく。
フェーズ 3:仕事を辞めたり、恋愛関係を終わらせたりして、自分を閉じ込めていたと感じるものと決別する。あらゆるものから距離を置き、自分が誰であり、何をしたいのかを見つけるための「タイムアウト」状態に入る。
フェーズ 4:ゆっくりと、だが着実に、人生を再建し始める。
フェーズ 5:自分の関心や目標に合致したことに、熱意をもって取り組むようになる。

私の今の状態を指すのは、1〜3であると思う。いっそこの不安な状態が続くのならと環境や関わる人を大きく変えてみるのもアリかもしれないと思い立ち、はるか遠くの知らない街へ思い馳せることも多くあったけれど、ここにあったのはそういった人生再建の行動を取ったからといって根本的解決には至らない、という事実だった。言われてみれば、環境を変えたとて私は何も変わらない(人間は簡単に変わらないという前提の元に)のだからまた大きく変化した"自分以外のもの"を目の当たりにして一から構築していくことにひどく悩むのだろうということが安易に想像できた。変わるべきは自分自身であることも筆者は説いている。

混乱、不安、意欲の減退を感じている20代の若者たちと話してみると、その多くが、大きな変化を起こせば、人生の目的が見つかり、心が落ち着き、やる気が湧いてくると信じていることがわかる。大きな変化とは、配偶者や恋人と別れる、転職する、別の街に引っ越しするなどのことだ。そうした変化により、有害な環境から抜け出せるケースもあるが、たいていは、変化を起こした後も苦しさはなくならない。

ではこの不安を取り除くためにはどうしたらよいのか。どうやら、このクォーターライフクライシスは20代のうちにフェーズ4まで達することができたとしても幾度か繰り返すこともあるらしい。そのため「他人の人生と比較しないこと」「非現実的な期待を抱かず、実行可能な計画を立てること」を目標として生きていくべきだと記してあった。

自分の人生と心に問いかけ続けること。自分の選択肢に誇りを持つこと。これまで自分で選んできたかけがえのない選択の先に、今があること。先のことばかり見て、蔑ろにしていた「今」にしっかり目を向けて、歩いていくことこそが、誰ともない自分の人生を豊かにしていく一番の近道なのかもしれない。

 

別にこんな意識高い感じの記事書きたかったわけじゃないんだけど。ただ昨日時点で勝手にこれに気づけていた私のEQ値高くない?さすが12年間日記書き続けていただけあって、自分を達観することに長けているに違いないワ。解決方法にも日記の重要性はあった。この達観できるという特技?が弊害を及ぼすことも多くあるけど、人間は誰だって自分のことが一番可愛くて、大切なんだからこれからも常に関心は自分に向けながら自分が一番幸せだと感じる瞬間を追い求めて、増やしていければいいんだよねーとってもシンプル。そしてまだまだ発展途上。つまりはこれから良くなるのびしろだらけ!らいふいずびゅーてぃふる!備忘録。

20211231

今年一番の寒波が襲来した夜、わたしはボタボタと傘におちる湿り気の多い雪を眺めながらひとり帰路についていた。年の瀬の雰囲気はやはりどこか忙しなく、街をゆく人々の足取りは軽快でいて少し焦っている様にも見えた。かくいう私はというと、終わらない仕事を無理やり2021年に詰め込んで、溢れ出さないように蓋を閉めたみたいな感じです。誰もいないオフィスを一通り見渡し、心の中でそっと「良いお年を」と唱えて施錠した。あとのことは、2022年の私へと託して。頼むよ。

26歳も半ばを過ぎて思うことはもう少しだって他人に干渉されたり、他人を干渉したくなんかないってこと。SNSの普及によっていやでも他人の人生が毎日目に入る。全く違う人生を歩むひとたちの美しく切り取られた正方形の写真たちを、どうしても私の人生と見比べてしまう。私の人生だってきっと素敵なはずなのに、見劣りするのはなぜだろう。このまま人の人生ばかりを気にして生きていたら、肝心な自分の人生に目を向けることなく、過ぎて行ってしまう気がして、こぼれ落ちてしまう気がして、すごくもったいないと思った。

だからわたしもっと自分の人生に集中することとした。刺々しい言い方になったけど、わたしはただ誰ともなく私の人生は正しいんだよと言ってほしいだけで、安心したいだけで。どんなことにも自信がないことが全ての元凶で、2022年の目標は兎にも角にも「自信をつけること」だったりする。自信をつけるためには、先ず「自分との約束を守る」が一番大切で、ずっとできていない。私は私に期待して、私は私を幾度となく裏切り続けてきた。少しでも私は私を好きになるために私を信じて愛してあげないといけないんだよな。そんなことはもうずっと昔から自覚してるから、余計にタチが悪かった。他人の人生を嫌う前に、自分の人生を好きになれますようにと願いながら、良いお年を、と次は自分に向けて。

夜のかけらと宇宙のココア

冬の寒さは大嫌いだけど、わたしにはとっておきの思い出がある。それを思い出すたびに、冬だって悪くないと思えるのだ。

幼い頃、父はわたしに流星群を教えてくれた。ある晩、寝ているわたしをやさしくゆすって、星を見ようと午前3時に抱き起こした。その頃はまだ親子3人、川の字に並んで寝ていて、母を起こさないようにそおっとダイニングから椅子をふたつだけ持ってきてベランダに置いた。寝起きのわたしにダウンジャケットと毛布を羽織らせてベランダへ。ツンと刺す寒さのなかベランダの向こうに見えた景色は、いつもとは違う街灯の消えたしずかな夜の街。寝ぼけながらに、台所へ向かった父を待っていると、あたたかいココアを用意してくれていた。わたしはその頃、まだこんなにも夜中に起きていたことがなかったためか、ただぼんやりと父の顔ばかり眺めていたらしい。あとからそう思い出話として語ってくれたけど、わたしの記憶の中にあるあの夜の星空には、絶え間なく降り注ぐ流星群が見えていた。わたしは当時から星に強く関心を寄せていて、宇宙の成り立ちや未だ解明されていない未確認生物の謎に思い馳せることが大好きだった。それはしばらくの間続いて、中学生の頃はホーキング博士の著書を片っ端から読んでいた。いつしか星座の図鑑にかじりついてた時期もあって、特に好きな星は今でもプレアデス星団という青く光る星の集まりだ。和訳では「すばる」といい、日本製自動車メーカーのエンブレムにも使用されているとても美しい星たち。流星群を見るとき、ふだんは寡黙な父がとてもワクワクしているように見えて、わたしはそれがとても嬉しかったから、流星群よりも父の顔ばかり見ていたんだろうと思う。深夜にこっそりとわたしたちだけに与えられた特別なショータイムは、今でもずっと心に残っている。あれからわたしは日本で流星群が観測される時期になるたびに、どうか一目見たいと冬の夜空を仰ぐのだ。先日、2021年のふたご座流星群が極大をむかえるという知らせを受けて、仕事終わりにアパートの裏手に回り込み、出来るだけ街灯のすくない場所で一人空を眺めた。その日は雲もなく観測するには十分な天気にも思えたが、まだ月が煌々と輝いていて星の数もまばらだった。それでも暖かい缶コーヒーを片手に小一時間眺めていたら、2〜3個見ることができた。あの時見た雨のように降り注ぐ流星群ではないものの、流れる星に気づくたび、あの頃と変わらない感動を覚えて心が奮えるのだった。これから先、あの夜を超えるような流星群に出会うことはないかもしれないが、わたしはこれからも流星群が流れる冬の空を楽しみに生きていくのだろう。

カルテット

自分の思いや、創作した話を書くのは得意(大好き)だけど完成した作品を見た後に書くレビューがなんとも苦手だ。ドラマ「カルテット」を見た。数年前に放映されていた連続ドラマで当時とても流行っていたのだけど、わたしは見ていなかったため、皆が揃って唐揚げにレモンをかけるかかけないかで揉めるくだりのことは知らないままだった。私は自分に興味のないものは、まるで自分の人生にはなんの関係もないといったそぶりで、遠く突き放し見向きもしないことがある。すすめられた映画も本も一向に見る気がしないのは、私だけではないはずだけど。そのようにして、当時高く評価されていた作品もまさに人々の記憶から消えようとしているときに、やっと遅れて出会うのだった。それが私のタイミングなのだから、そりゃもう仕方がない。「カルテット」をはじめ、愛してやまないドラマ「最高の離婚」を脚本した坂元裕二監督には心底驚かされてばかりなのだ。ほんの些細な感情の機微や、人間の心の奥底に眠る繊細な揺らめきを、ものの見事に映像化してしまえる才能の持ち主だ。坂元裕二監督が描く人間は、どこか欠けていたり、どこか足りなかったり、どこか抜けていたりする。不完全な人間を描くのがとても上手いと素人ながらに思うのだ。高く評価されている理由はきっとそこにあって、どんな人間も自分は取るに足らないだろうと嫌悪に陥る日があるに違いなく、そういう生き方しかできない人がいるということを彼は、とても理解している。だから彼の作品の中に生きる登場人物たちが紡ぐ台詞が、心に刺さって仕方がない。彼の作品には、登場人物が長く独白するシーンが多く見受けられる。映像もシンプルで、感動的なシーンにありがちな「ここで泣け!」と言わんばかりの辛気臭いBGMも流れたりしない。ただ演者の演技力と、台詞の一つ一つを頼りにして視聴者にメッセージを伝えている。君はそのままでいるだけでとても価値があり、完璧な人間などどこにもいないことを作品を通して教えてくれる。そんな気がする。また、ただの恋愛沙汰で終わらせることなく、人と人との繋がり、たった一言の関係性で終わらせることができない絆についても細やかに描かれてる。更には決してハッピーエンドだけで終わらない点も、今わたしたちが生きている現実に程近いと感じる。人生はとても長く複雑で、美しい出来事ばかりではないことを坂元裕二監督は伝えたいのかもしれない。違うかもしれない。今後の作品を楽しみにするとともに、以上を以ってしてレビューとさせていただきたい。

深夜高速

死のこと怖いって誰より思っていたくせに最近なんかアーもーしにてーなー疲れたーとか軽率に思うようになっちゃって。ほんとはそんなこと思ってないよゴメンゴメンって、心にね、謝ってる。そんな矢先、偉い人に寿司を奢られて、また素敵な歌にめぐりあって、そういえば5月にライブがあって、もっと近い再来週には好きな芸人の晴れ舞台もあるなどして、私は私の人生について何の執着もない割に、何も執着がないからこそ、好きなものがたくさんあるので無事、明日も頑張ろうと月並みなエールを自分に送ることができている。私を取り巻く数多くの、愛すべきものたちよ、いつも本当にありがとうございます。毎日眠るのが遅いせいでこう言ったマイナス思考に陥るらしく、顎にできた複数の吹き出物たちが日々の自堕落を物語っている。原因と改善策を何度調べても規則正しい生活を、清潔な暮らしを、とありそんなものは自分が一番わかっておりますて。もっと他にアッと驚く解決策とかないんですかね。今夜も吹き出物への効果が期待される薬をこれでもかってほど塗りたくって寝床につくのでした。取ってつけたようなノー残業デーは、会社の体裁を守るためのものでしかなく。実態は終わらない仕事を放り投げて、そそくさと追い出される始末。2倍以上のタスクを抱えて迎える木曜日の朝の憂鬱さからどうしても逃げたくてAM1:33、まだこうして日記を書き記している。しばらくのあいだは吹き出物が治りそうにない。間も無く年末を迎える社会はみな足早で忙しそうにみえるだけで、どうせ長期連休の行き先のことくらいしか考えてないんでしょ。責任の所在を明らかにするための文書は早く出したものが勝ち、これは社会の掟だから期末テストに出ますので。今からマーカー引いときな。好きな曲を飽きるまで聴き続ける癖、気に入った食べ物は毎日食べ続ける癖。最近気づいたけど私はそんな自分の癖、結構好きなんだよね。興味尽きるまで続けてみてよ、飽きたらやめてもいいんだもん。清々しいほど人生は、私のものでしかないんだし。夜にしがみついて朝で溶かして、明日の朝の後悔は明日の朝の自分に託す。今夜の後悔、今夜のうちに。おやすみなさい。

ビューティフルに生きて死ぬための僕らの人生 人生

嫉妬の裏にはなりたい自分の姿がいやというほど隠れていることをわたしは知っていて、だから例え妬みの感情が湧いて出たところで誰を攻撃するなんてことはないんだけれども。ないようにしているんだけれども。到底あなたがたには及ばない自分を、辿り着けない自分を、とても憎たらしく思ってしまう。そうしてわたしはまた自分自身を貶して、疎んで、嫌いになってしまうのだ。だから距離を取りたい。羨ましいひとのそばには、できる限り居たくない。これ以上自分を嫌いになることがないように。

私と私以外の人間との大きな違いはこういう負の連鎖から断ち切るために今までよりも多くの努力をして、なんとか上記のような感情を抱かないようにするんだろうけど、私はそれもできやしない。これ、一生付き合っていかなくちゃいけないっぽい。

優しくて可憐な笑顔で笑うあの子の周りには、あふれんばかりの人が辺りを囲んでいて、私はいつもその蚊帳の外で、人目につかないような物陰でめそめそと泣いている。人影が通ると、必死に口角を上げて、にこやかに振る舞っている。だってそうでもしないと私は自分以外の人にも嫌われてしまうから。私はそれがすごく怖いから。どうか誰も私には気づかないでいて、蚊帳の外に目を向けないでいてほしいと願いながら、でも決して突き放さないでほしいと願いながら、心の中でひっそりと、泣き叫んでいる。

私はもっと自分を愛せるようにならなくてはならない。ひいては努力をしなければならない。誰かを愛することは得意なのに、私は今日までずっと自分のことが嫌いで仕方がない。救われたい。明るくなりたい。

私を笑ってくれるなよ

失敗を嘲笑われたことを今日一日中ずっと、本当にずっと考えていた。(引きずっていた)他人の失敗を笑ってもいいなんてこと、学校はおろか親からもわたしは一度も教わったことなんてなかった。誰にでも失敗や得手不得手はあって、うまくできなかったときに本人以外が馬鹿にして笑っていい理由にはならないに決まっていて。それを知らない、理解できない人間がこの世の中には一部いるわけで。わたしは自分に向けられた嘲笑が発生した瞬間に、心の中に住まう暴力団組長がジャケット裏に隠し持っていたチャカを取り出して、眉間めがけて振りかざしそうになるのを、なんとかグッと抑えてもらって何も言わずにその場を立ち去った。信じられないくらいの時間差でフツフツと込み上げる憤りをどこにぶつけるわけでもなく、出先に向かうため乱暴に車を出して音楽をかけたら涙が出てきた。悔しさと、何も意見しなかったことについての後悔などが込み上げてきたけれど、やっぱり特に何もしなかった。できなかった。真っ当な大人だから。今日をもちまして私を嘲笑ってきた人間とは一方的ではあるものの縁を切りました。いや人間の風上にもおけない、今後言葉の通じない動物として接していくことと致しました。もう私の人生には、一切合切関与させないことを決意しました。それくらいしないと、嘲笑われたわたしがとても可哀想。ただ一つだけ、嘲笑われた側でよかった。人間を嘲笑うような人間にならなくて、本当に良かった。そう言い聞かせているだけで、実のところ今日私を嘲笑ってきた彼に対してだけは、今後同じようなことがあったら率先して嘲笑っていきたい所存だけれども、それをしないという選択こそがこれからも真っ当な人間でいることを保てそうな気がする。理不尽な社会を生きていくうえで何度も思い出してはその度に胸に刻む言葉の一つに「傷つけるより、傷つけられる側でいましょう」がある。クリープハイプのVo.尾崎世界観氏の言葉だ。わたしはこの言葉にだけ、ずっと救われ続けている。同時にこれからの自分自身に強く誓う。人を嘲笑うような人間にだけは、ならないでいてくれ。この先どれだけ荒もうと、汚れようとだ。さすれば今日の私がきっと救われるはずだから。っていうのは全部嘘でクソ野郎!死んじまえ!バーカバーカ!明日から、ありとあらゆる不幸な出来事が絶え間なく彼に訪れますようにと、そう心の底から願っています。

星野結夏さま

暦の上に春は立ちながら、厳しい寒さが続いておりますが、 いかがお過ごしでしょうか? 風邪など引いていませんか? 霜焼けなどしていませんか? 突然の手紙ごめんなさい。 まだまだ寒く長い夜のついでに目を通して頂ければ幸いです。 まず、我が家に暮らして3年目を迎える2匹の猫に関してお知らせします。 彼らはなぜか最近テレビをよく観ます。 株価のニュースを観ながら話をしています。 彼らの人生に株価が何か作用することがあるのでしょうか? 『金魚カフェ』では、姉の体調もあって、最近継男さんがラテアートを描いています。その絵の作風が常軌を逸しており、女性客が悲鳴を上げて帰る事しばしばです。 上原さんに紹介されて、先日ついに河合さんと対面しました。 驚きです。 河合さんは、まるでギリシャ彫刻のような2枚目だったのです。 握手の手を差し伸べ「やあ、初めまして」とおっしゃっていました。 友達になれるかどうかは、ちょっとわかりません。 目黒川を行き交う人々は、桜の木を見上げて開花の時季を待ちわびながら、すでに花見の約束を取り交わしています。 また、あの賑やかな季節が訪れるのですね。 昨日、君の夢を見ました。 君がたくさんの風船を抱えて来る夢でした。 君は無数の風船を僕と自分の体に結び付けました。 僕と君は風船に軽く体を持ち上げられて、空を飛びました。 目黒川を見下ろすと、マチルダとはっさくが見上げてるのが見えました。 上原さん達が赤ん坊を抱いて手を振っていました。 僕は風に流されて飛んで行くしかない自分のひ弱さが少し悲しかったです。 川沿いの道を今日も歩きます。 不思議と1人になった気がしません。 まだまだ僕は、毎日を君の記憶と共に暮らしています。 君がよくお風呂場で歌っていた歌・・ 「♪静かに静かに 手を取り手を取り」 そんな風に始まる歌。そんな風景。 深夜2人でDVDを借りに出かけた時の事。 月が随分と大きな事に気付いた僕と君は、そもそもなぜ出掛けたのかも忘れて夜の散歩をしました。 旧山手通りで焼きいもを買って、半分に割ったら大きさがまるで違って、じゃんけんして、食べて、笑って、手をつないで・・ 僕が結婚を口にしたら、君は焼いもをいっぱいに頬張った口で、声にならない返事をしました。 そんな始まり。そんな風景。 君と結婚して知った事があります。 洗面台に並んだ歯ブラシ。 ベッドの中でぶつかる足。 いつの間にか消えてる冷蔵庫のプリン。 階段を先に下りる事。階段を後から上がる事。 恋はいつしか日常に変わる事。 日常が喜びに変わる事。 間違えてはいて出掛けた女物の靴下。 メールで頼まれる番組録画。 背中をかく事。 怖い夢を見たら寄り添う事。 もう1人の父親。もう1人の母親。 もう1つの故郷。 故郷から届くミカン箱の中の白菜。 日常が奏でる音楽。 日常を伝え合う事の物語。 ここにはまだそれが転がっています。 部屋の隅に。電球の裏に。 カーテンにくっついたまま過去から訪れる君の愛情を受け取っています。 川沿いの道を今日も歩きます。 1人づつ2人で生きていた事。 僕の中に住んでいる君。 君の中に迷い込んだ僕。 不思議と1人になった気がしません。 いつかまたそう思う事の愚かさを思いながら、それでも思います。 夜中の散歩をして、じゃんけんして、食べて、笑って、手をつないで、焼いもを頬張りながら、また同じ事を話すんです。 僕たち一緒にいると楽しいよね? 一緒に年をとりませんか? 結婚してくれませんか?

光生さんへ

光生さんだって。今そう書いてて自分でびっくりしました。 あなたのことを名前で呼ぶのは、ちょっと記憶にないぐらい久しぶりな気がして、なんか緊張します。 とりあえずご報告です。私家を出ました。 部屋を見て、びっくりしましたか?口開いてませんか?今説明しますので、ひとまずそれを閉めてください。 あのね光生さん、やっぱりこのまま一緒に暮らすのは変だと思いました。 私たちは離婚して結構経つし、何かと支障があると思うのです。 どんな支障かはうまく説明できないのですが、最近どうもまた、あなたのことを見ていると変にざわざわするのです。 私なりにそのざわざわを打ち消すとか、あるいは元に戻す努力を検討してみたのですが、どちらもうまくいきませんでした。 私、あなたのことを変だとか言いましたが、どうやら誰より変なのは、私なのかもしれません。 いろんなことの調整がうまくできなのです。 好きな人とは生活上気が合わない、気が合う人は好きになれない。 私あなたのいうことやすることには何一つ同意できないけど、でも好きなんですね。 愛情と生活はいつもぶつかって、なんというかそれは、私が生きるうえで抱える、とても厄介な病なのです。 前に映画見に行きましたよね、ほら、私が10分遅刻したとき。 横断歩道を渡ったら、待ち合わせのところにあなたが立っていました。 寒そうにして、ポケットに手を入れてました。 この人は今私を待ってるんだ、そう思うとなぜかうれしくなって、いつまでも見ていたくなりました。 それは映画を見るより、ずっとすてきな光景だったのです。 あなたをこっそり見るのが好きでした。 あなたは照れ屋で、なかなかこっち向かないから、盗み見るチャンスはたびたびあったのです。 目黒川を二人で並んで歩くとき、こっそり見てました。 DVD見てるとき、本読んでるとき、いつもあなたを盗み見て、気持ちは自然と弾みました。 桜が見える家にお嫁に来て、桜が嫌いな人と一緒に暮らして。 だけどあなたが思うよりずっと、私はあなたに甘えていたし、包容力って言うのとは少し違うけど、あなたのひざでくつろぐ心地よさを感じていました。 一日ひなたに居るような、そんな、まるでネコのように。 もしかしたら私はこの家に住む、3匹のネコのようなものだったのかもしれません。 美味しいご飯ありがとう。あたたかいベッドありがとう。ひざの上で頭をなでてくれてありがとう。 あなたを見上げたり、見下ろしたり、盗み見たり、まじまじ見たり、そんなことが何よりかけがえのない幸せでした。 光生さん、ありがとう。 お別れするのは自分で決めたことだけど、少し寂しい気もします。 でももし、またあなたをこっそり見たくなったときは、あなたにちょっと話しかけたくなったときは、また、どこかで 

手話を会得したゴリラが言うには

むかし、動物系のテレビ番組でゴリラと手話でコミュニケーションのとれる外国人女性研究者の特集が放送されていた。ゴリラは知能が高くて、簡単な動作なら人間を真似てみることができる。彼女はゴリラとさも友人と過ごしているかのような親密さで一緒に食事をしたり、絵を描いたり、庭の草抜きをしていた。ゴリラもまた危害を加えるそぶりなど見せずに、彼女に愛情表現をしたり、人間のような振る舞いで共同生活を楽しんでい(るように見え)た。彼女はゴリラとの信頼関係を育むなか、研究の一環として手話でのコミュニケーションを試みた。たしかに、同じ種族(哺乳類とか、爬虫類とか、はたまた魚類とか)であれば同じ言語で話せるのかや、私たち人間のように生まれた土地の言語があるのかなど、動物と人間との違いにはいくつかの疑問が浮かぶ。動物との意思疎通が、これだけ発展と進化を遂げた現世においても成し遂げられていないということはつまり、なんか、すごく難しいことなのだとも思う。革新的な実験に興味がわいた。

ゴリラははじめ、彼女の手の動きをまじまじと見つめながら、手を挙げるそぶりを見せるが、細やかな指の動きまで理解することはそう簡単にはいかないらしかった。彼女は普段の生活の中で、何度も何度も手話とリンクする挙動をゴリラに伝え続ける。うちに、ゴリラはほんの少しずつ理解し、手話で会話ができるようになったのだ。これがただのエンターテイメントであり、フィクションであるに違いないなどといった野暮な意見は、今のところ聞き入れたくはない。最寄りに親しいゴリラがいないため、実践はむずかしくもあるにせよ、種族を超えた意思疎通の瞬間にいたく感動を覚えた。

話変わって私はとても「死」が怖い。怖くない人間などこの世に居ない気もするが、「死」を恐れる頻度が周囲の人間の中でとりわけ高いと感じている。たとえば夜、寝る前に必ずこのまま目が覚めなかったらどうしようと不安になって眠れなくなる。運転中、衝突されたらひとたまりもないなと頻繁に怯えている。高速道路で、まさに今心臓が止まったらという不安が脳裏をかすめる。喉に詰まらせて死ぬことを恐れて、正月に餅が食べられない。脱線する気がして、電車の先頭車両はなるべく避けて乗車したい。溺死が怖いので足のつかない水場には、近寄ることができない。自宅の火事を恐れるあまり、ガスコンロが爆発して死ぬ夢を何度も見る。強盗に刺される気がして、夜道は背後を見せずに歩く。誰かが命を落とすことが約束されているミステリーや戦争の物語には出来るだけ触れたくない。事件や事故のニュースを見るだけで気分が沈み、体調が悪くなる。

ただ普通に生きているだけなのに、どちらかといえば健康体なはずなのに、突如として不安に駆られることが多くある。この身が滅びあと、今ある意識が、自我がどこへいくのか想像がつかず怖くて怖くて仕方がない。人間は理解の及ばない事柄に対して、恐怖心を抱くと聞く。先に逝った人たちにどうにかして感想を聞き出せたらこの不安は消し去ることができるのに、それは叶わない。せめて残りの命の残数が分かれば、覚悟を持って死に立ち向かうことができるのに、それも許されないのだ。心霊的なそれはこの目で見たことがないため、信じることができないけれど、死んだ身内なら怖くはないはず。そっちの世界の様子や、亡くなる瞬間のことを少しだけ教えてほしいと強く思うのだった。

ゴリラと手話で会話ができるようになった女性は、ゴリラに生い立ちや、家族や、仲間のことをたずねる。会話を重ねていくうちに、女性はゴリラが「死」という概念を理解していることを知る。ゴリラが可愛がっていた犬が車に引き殺されてしまった際には、ひどく落胆し「何も話したくない」と手話で伝え泣いたのだそう。人間は、死んだあと身内によって葬儀が執り行われ弔う儀式が形態に違いはあれど、どの国にも用意されている。肉体と魂が離れ、魂は「あの世」へ行くと言い伝えられ、不要になった肉体は焼却され、土に埋められる。そこまでしてやっと弔いが完了する。人間以外の動物にも「死」は存在するものの、悲しみを抱くというのはにわかに信じがたかった。彼女は、ゴリラに死生観を問う。「あなたたちは死んだらどこへ行くの?」すると手話を会得したゴリラはこう伝えた。「眠る 苦痛のない 穴の中へ さようなら」

私はまだ死ぬことを恐れている。この恐怖を感じなくなる日はきっと来ない。いつか訪れる「その時」にゴリラの言っていることは本当だったと証明してみせよう。残念ながら、伝える術はないけれど。