パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です

笑う時に生まれるエネルギーで発電してみたい

わたしの忘却曲線は、齢関係なく翌朝にはもう急降下してしまうから実際の記憶のおそらく50%も書けないだろうけど、それでもまだ覚えている範疇で、忘れたくないことから書き記していくこととする。

人生で二度目の、生でお笑いを鑑賞しに名古屋へ。

疫病の流行に伴って、不要不急の外出は控えよと通達の出されている最中ギリギリまで向かうことを悩んではいたけれど誰も誘わなかったし、それ以外の用事はすべて後日に回して直帰したので、まあ今回ばかり大目に見てはくれまいか。

一度目の観劇は、4.5年前に本場大阪のちいさな劇場にて500円で1時間のお笑いライブだった。熱心に若手であろう芸人たちが集客のためバラを配り歩いていたことをよく覚えている。

ちいさな劇場で行われた生のお笑いはテレビで見るそれとは別格で会場の熱気や気迫みたいなものが肌で感じられて、たった500円で感じられる体験のなかでは最もお得な時間だったと思う。

2月25日、会社の有休消化を義務付けられているのでたまたまこの日にライブがあることを知っていたからあてがってみたら、チケットが取れた。

昨年末の全国漫才王者をきめる賞レースに出ていた芸人が全員まとめて地方巡業といった具合だ。その中で一際好きな芸人がいて、お目当てはそれくらいしかいなかったので他の芸人で眠くなってしまいそうで心配だった。けれど、そんな心配もよそに退屈な瞬間なんてものは1秒たりとて訪れなかったことを先にお伝えしておきたい。

会場には、あの賞レースで流れる印象的な出囃子がフル尺で延々と流れ続け、会場のボルテージは今か今かと駆け上がる。開演5分前に前説である地元名古屋の漫才師が注意喚起と拍手の準備。彼らもまたその後に続く漫才師たちと同じ舞台に立てることを夢見て、日夜努力しているんだろう。知ってる人は少なかったけれど、そのいつかを楽しみにしたい。

開演後のことはテンポよく次々と漫才師が入れ替わり立ち替わり会場を笑わせにやってくるのであっという間でほとんど覚えていない。いつも画面の上で見ていた芸人たちがこうして同じ空気を吸って、目の前で迫力ある漫才を披露してくれるなんて贅沢な時間なんだろうと静かに思う。

驚いたのは、漫才師それぞれの出囃子が用意されていること。私はよくバンドのライブにはいくけれどSEといって、登場シーンでお決まりの音楽が流れることがある。暗転してSEが流れる瞬間のあの心踊る感覚がまさか漫才でも感じられるとは。それぞれのコンビがマイクへと向かい歩く速度にピッタリあった出囃子が、これまたそれぞれのコンビの雰囲気、芸風と相まっていてそれだけで気分が高まる思いがした。舞台を終えて去っていく後ろ姿もそれぞれで、漫才師はスーツの男が多いため襟首を正して戻っていく姿、ゆったりとした足取りで戻る姿、コンビの足並みが揃っている姿、どちらか一方の速度が速くあっという間に掃けていく姿、最後までエンターテイメント性を保ったまま、ふざけて掃けていく姿。みんな違った個性を持ち合わせていて、姿が見えなくなる最後までずっと目が離せなかった。

それから、声。もしかしたらお笑いは声がなにより重要な個性なんじゃないかと思う。ハリよく会場後方まで伸びる声、決して大きくないけれど澄んだ聴きやすい声、見た目と相反するギャップのある声。テレビでは均一な音量として視聴者に届くため、これは実際に体験してみないと分からない出来事だった。言わずもがな売れている、よく見かける芸人の声は心地よい声色をしていた。

一人で行ったのに果たして笑えるのかと危惧してあたけど、気づいたらお腹を抱えて涙を流して爆笑してた。一人で声を出しながら笑えるなんて幸せだったな〜。時世的にまだ、表立って言えないけれど、みんなも絶対にあの空気を体感したほうがいい!本当にすばらしいものだから。

追伸、愛してやまない目当ての芸人の相方と帰りの道ですれ違った。ほとんどゼロ距離だった。人は本当におどろくと声なんか出ないし、ましてや憧れの人のそばに寄れば放つオーラで弾き飛ばされそうになる。用意したファンレターは渡せなかったけれどいつの日か目を見て笑顔をくれてありがとうの感謝を伝えてみたいと思う。#M1ツアースペシャ

私が有する救いについて

 音楽

幼い頃、親から譲り受けたCDプレイヤー。初めて聞いた音源は父から借りたザ・ビートルズ「1」。母の精神疾患により、定期的に叫び声がこだまし怒号が鳴り響く夜、決まって自室にこもっては、部屋の隅にうずくまり最大音量で音楽を鳴らしていた。胸が張り裂ける悲しみを背負った夜にブルースを、怒りで感情的になった夜にパンクロックを、喜び募る朝にバラードを、人を想いあたたかな気持ちを抱く夕焼けに、とびきりのラブソングを。そのようにして私は数多の風景と瞬間を彩る音楽に、身をあずけてきた。

 

煙草

20歳の頃付き合っていたが影響しているなんて人に話すにはあまりにも恥ずかしい。そんなものは遠い昔の記憶にすぎず、いつだったか闇に葬ってしまった。今はただ一人、自分の意思で吸っている。最近世間は喫煙者を排除しようという取り組みに熱心だ。最寄りの愛煙家によるところ「人よりも多くの税金を支払い、早く死ぬ可能性の高い私たちがどうして肩身の狭い思いをしなくてはならないのだ」という。全くもって同感だ。女なのに、女のくせに、吸うことによるメリットなど一ミリもないのに、なぜ煙を吸うのかと顔を赤くして尋ねる人間には到底理解の及ばない領域で、私は煙にすがりついている。煙がたゆたう瞬間に、ため息のような深呼吸のような深い呼吸が白く可視化される。ほんのすこしだけ自分の魂が腑抜けて、いつも吸い終わる頃にふと体が軽くなる。どこにも吐き出すことができなかった憤りを煙に、やり場のなく飲み込んだ言葉たちを煙に。あっけなく空へのぼる白い煙には、わたしにしか見えない特別な色がついている。

 

日記

14歳から11年間つけている日記。どこにでもある方眼ノートに、その日書きたい分の言葉を書きなぐる。書く日は不規則で、毎日書き連ねる日もあれば、半年ほど日記の存在を忘れてしまう日もある。4ページに及ぶ超大作を生み出す日も、ノート1/3ページ分で終了する日だってある。そんな日記にただ一つだけ設けているゆるぎないルールは「心突き動かされる出来事があった時のみ残すこと」日付の決められた日記帳を買ってみたこともあるけれど、3日と続かなかった。11年前の日記を時系列的に遡ることがささやかな趣味のひとつともいえる。もう忘れてしまった(当時の自分にとっては忘れたくなかったはずの)出来事を、その日の情景もろとも鮮明に思い出す。人は身長体重のほかに、文章や字体も成長と共に変化することを知り、その日強く感じた痛みや不安が日が経てばまるで、喜劇だったことを知る。それは手に取るタイムマシンのようで、安易に過去の自分に再会できる。どんな読み物よりも愉快で、愛おしいその日記にある過去の自分からの励ましに、強く背中を押される日がある。書き殴ることで、片付けの行き届かない思考が整理される。どんな物事も客観的に眺められると、不思議と心が落ち着くのだ。なかには到底人様にお見せすることのできない罵詈雑言や、情事にまつわる出来事も含まれているので私が死んだら信頼できる友人に、どうか燃やして頂きたい。

 

はてなブログ

日記を電波の海に放り込んでみたかたち。このブログに書き連ねた文章のことを、いつしか褒めてくれるひとたちがいた。なにも誇れるものがないわたしにとって、文章を褒められることがなによりも嬉しかった。その経験が忘れられなくて、書きたいテーマが猛烈に思い浮かんだ時にだけ、更新される。少しだけ言い回しを背伸びして、物語に脚色して、自分だけが思い描く理想の世界観を、自由に創り出すことができる場所。ここに描く物語は、わたしの話であるようでいて、じつは全く別の世界のお話だ。ここの1番の購読者は、紛うことなく自分自身。満足のいく文章になるまで何度も何度も書き直す。大切なのは、語感と温度と美しさ。誰にも言わない夢の一つに「小説家」がある。

 

短歌

たった三十一文字で世界の見え方を180度変えられてしまった経験がある。コピーライトやCMなどの制約があるなかで放つ文章の輝きは底知れない。文章は簡単に重ねることも加えることもできるからこそ、極限まで無駄を省き研ぎ澄まされた文章には濃度の高い美しさが凝縮されている。小説とは異なり物語ではない分、詠む人それぞれの解釈が許されている。さらに、詠んだ時の自分が置かれている環境や立場や想いによって短歌は姿形をかえて私のそばに寄り添う。何度同じ歌を詠んでも、解釈が異なるすばらしい特性をもつ。

 

Twitter

私の世界を広げたソーシャルネットワーキングサービス。狭く、薄暗かったわたしの世界の外側には自分と同じような境遇で、同じような時間帯に、同じような思考をもった人間がこんなにもいるのかと感動を覚えたのが高校3年生の冬。誰にも共感されるはずがないと諦めた感情を、顔も知らない誰かと共有する。その誰かは確かにこの世界のどこかに存在していて、画面の向こう側で同じように指先を滑らせている。私は決して一人ではないのだと、目に見える世界はほんのわずかな一部にすぎなかったのだと音もなく静かに流れる大切な居場所。

 

ストリップ

浅草ロック座と真砂座へ行ったことがある。自己肯定感の低いわたしにとって、究極の自負心を学ぶことができるカルチャーことストリップ。約3年前、女友達5人でみたあの華やかな景色が、今でも色濃く胸に焼き付いている。豊かな自己愛がないと、全裸で人前に立つことなど到底できるはずがない。自分の魅せ方を心得ている女性たちの艶やかな眼差しは、強く誇らしかった。いまだに、またあの景色がみたい、あの熱のこもった会場でひとときも目を離したくなくなるような経験を、またしたい。あの日みた輝きを目標にしながら、日夜自己愛を磨く訓練に勤しんでいる。成果はまだない。

 

そんな、私が有する救いの話。

映画「滑走路」を観て翼になりたいと思った話

出逢うべくして出逢うものは、人間同士の出会いだけではない。音楽も文学も短歌も映画も出逢うべき時に、出逢うべくして、出逢うのだ。私にとってのそれは今、故・ 萩原慎一郎ただひとつの歌集「滑走路」である。

今年の夏に、私は自らの手で大きく人生を変えた。 このまま道なりに進んでゆけば、ごく一般的な幸せを掴めるはずだった道を大きく逸れて、自分だけが望んだ道を手に入れた。その選択に後悔すらなかったものの、先の見えない暗がりに怯えて自信を失いかけていた。そんな時出会った歌集がこの「滑走路」だった。

この歌集には、いじめや非正規雇用を経験し将来への不安に苛まれながらも、希望の光を手繰り寄せながら懸命に生き抜く、一人の青年による魂の叫びがおさめられている。

この歌集にある短歌の多くは、そんな境遇の中で前に進もうと自己( や同じ境遇にある人間)を鼓舞する歌が多く見受けられる。ただ決して背中を叩いて前へ進め、などと無責任な励ましの言葉が並べられているわけではない。人が心の奥底に密かに所持している打ち明けられない苦悩や、時間が経っても癒すことができない深い傷に寄り添うようなあたたかいものばかりだった。

そんな萩原慎一郎が紡ぐ三十一文字に、 私は救われてきた。 歌集を読み終えたあとがきの最後にご両親による文章が含まれていて、そこで私は初めて萩原慎一郎が32歳という若さで逝去していたことを知る。これほどまでに慈悲深く、 人の痛みを癒す優しい歌を残しておきながら本人は自らこの世を去るなんて、ひどい話だ。この先二度と、新しい作品に触れられないことを心から残念に思っていた。

最中に、この歌集を原作とした映画の公開を知ったのは何かの巡り合わせであるにほかならず、映像として観られるなんてまたとない機会。観に行く以外の選択肢は見当たらなかった。一人きりで鑑賞することが使命のようにも感じられ、限られた上映会場を目指し足を運んだ。

映画「滑走路」 は歌集から着想を得た3つのストーリーが並走する。厚生労働省の若手官僚として働き、過労の末に不眠症に陥る鷹野。友人を救った腹いせに卑劣ないじめを受ける学級委員、隼介。そして、 夫との不和の中キャリアに悩む切り絵作家の翠。

この3人が織りなす物語にはそれぞれの人生において直面する痛みや、不安や、現代社会特有の生き辛さがリアルに描かれていた。 心に傷を負ったことがある人ならば、いずれかの痛みに共感することができるだろう。私もそのうちの一人であり、3人が抱える苦難にはそれぞれ身に覚えがあった。

自身の努力ではどうにも覆らない現実の救いようのなさに、 終始胸がヒリヒリと痛む。特に鷹野の劇中の設定は、わたしと同じ25歳。自分の弱さゆえに犯した過去の過ちから、目を背け続けてきた自責の念が、彼の心と身体を蝕んでいく姿は見ていられないほどで、共感のあまり息苦しささえ感じた。

鷹野は自分の犯した過ちを償うに必要な手がかりを見つけ出すべく、過去の自分と立ち向かうことを決意する。その過程にある葛藤や迷いに対して、ひるむ足を必死に動かしながら前へと進む姿に、私はまた救われてしまった。

全体的に余白の多い映画だったため、役者の表情や些細な仕草から心情を汲み取らなければならない。 この映画ひとつとっても受け取り手によって解釈が異なる点は、 短歌が持つ性質とよく似ていた。

原慎一郎は、こんな言葉も遺している。

最近思うんです。どう考えても、納得できないような事態と遭遇してしまう人たちが実際にいること。でも力強く生き抜いている、そんな姿を、見ると心を打たれる。誰からも否定することのない輝きを有しているからです。だからぼくはうたうんだと思います。誰からも否定できない生きざまを提示するために。

 萩原慎一郎は、自身の経験を苦しい思い出に染め上げることなく社会の声なき声を、短歌にした。自身の経験を他者への攻撃や恨み嫉みに落とし込むこむのではなく弱者に寄り添い、それらを伝えるための手段として短歌を作り続けた。彼の人間性の奥深さに感銘を受けると共に、この映画や歌集をきっかけにして一人でも多くの人間がこの映画の3人のように、私と同じように、救われることを切に願う。そしていつしか私も誰かにとっての希望や救いや、翼となるのだ。

きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい

今日という日もまた栞読みさしの人生という書物にすれば

まだ結果だせず野にある自販機で買いたるコーラいまにみていろ 

未来とは手に入れるもの自転車と短歌とロックンロール愛して

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ボリューム満点激安ジャングルに欲しいものなんて何もない話

近所にドン・キホーテがある。深夜まで営業していて、仕事で遅くに帰っても、残り僅かな消耗品のことを急に思い出しても、買いに行ける便利さに日々感謝の気持ちでいっぱいだ。ドン・キホーテは何よりも薄利多売で安物が数多く品揃えられている。この町に越してきて初めて10個入りの卵を88円で買えたときは冗談かと疑いながらも2パック買った。思わず小躍りしながら帰った。安いのは食品だけではない。市内で一番おおきなドン・キホーテだから2階には日用品、美容関連、3階には電化製品までそろっていて、そのどれもが文字通り激安なのだ。そのドン・キホーテを除いては特に何もないこの町の人々にとってはまるで楽園のようなディスカウントストアで、店内を永遠に流れ続けるドン・キホーテのテーマソングにもあるようにボリューム満点激安ジャングルの名に恥じない。何もなかったわたしの1Kアパートの部屋にあるもののほとんどはこのドン・キホーテの代物であるわけだけど、わたしはそれが気に食わない。ドン・キホーテにいくとド派手なポップで端数価格効果を利用した178円だとか298円だとかにまんまと乗せられている自分に嫌気がさしてきた。深夜に訪れるとそこはスラム街と化し、悪い奴はだいたい友達そうな男と、悪い奴はだいたい友達そうな女とがカゴに商品を乱暴に詰め込んで横柄な態度で店員をいびる光景を、目の当たりにすることも少なくない。目を付けられると舌打ちでもお見舞いされてしまいそうな鋭い目つきでくたびれ果てた私に視線を向けるので買い物がしづらいという点がひとつ、そしてなにより安く手に入れたものを人は長く大切にできないことを痛感する。簡単に手放せてしまえるものにお金を払う価値はどこにあるだろう。心ときめく買い物を最近していないことに気づき、さらにドン・キホーテに対する嫌悪感は募る一方だった。ちなみにドンキ・ホーテは何も悪くない。それでもわたしは今日もドン・キホーテに行かなければトイレットペーパーも食材も柔軟剤も何もないのだ。売り場に陳列された商品たちはいつ見ても雑多に積み重ねられているだけで、陳列というよりも投げ売り状態だ。物には少なからず心が宿っているにちがいないと思っているので下品な商品棚を見るたび心が痛むのだった。来るたびに私の本当に欲しいものなんて実はここには何ひとつない気さえしてくる。私はドン・キホーテの巧妙な販売戦略のもとで買うことを強いられているだけなのではないか。そんな気もする。そうはいっても卵が88円で買えるのはここくらいしかないので私はこれからもこのボリューム満点激安ジャングルの奥地へと足を踏み入れていくのだろう。本当に欲しいものほど、簡単に手に入れられてしまっては困るのだ。f:id:rccp50z:20201112123557p:image

拝啓、親愛なる焼き鳥大吉マーサ前店様

大学1年生から3年生の後期まで、地元のスーパーマーケットでアルバイトをしていた。スーパーには珍しく深夜23時まで営業をしていたから時間を持て余す大学生にとっては都合のいいアルバイト先だった。そのスーパーの近くに、こじんまりとした居酒屋があって、毎日のように赤い提灯を灯していた。店内は座席が20席ほど、常連客でにぎわう焼き鳥が売りの店だった。そこで働くのは、すらりと背の高い丸メガネの大将と、口数が少なくも愛想よく微笑む顔が印象的な奥様だ。

バイト終わりによく遅めの夕飯にと、バイト仲間数人で足を運んだ。歓送迎会や送別会にもよく利用していて、3年半分のはじめましてやさようならを、この店で過ごした。私が愛してやまなかったメニューは、焼き鳥と言いたいところだけど、〆に頂く「焼きおにチーズ」とリンゴ酢サワーだった。焼きおにぎりの上にチーズが乗っているだけの至ってシンプルなメニューだけど、そこいらの店のそれとはわけが違う。甘じょっぱいピリ辛の味つけのタレと、上に乗ったスライスチーズ、焼きおにぎりの香ばしさとが相性抜群で、格別においしかった。

スーパーの仕事は単調な作業の繰り返しに思われるが、数時間立ち続けるのでなかなか体力を消耗する。それに忙しい日曜日の特売の日となれば、1台のレジにズラリと人が連なるので心休まるときがない。そんな仕事を終えたあとに、あたたかい明かりを灯すこの店に入るといらっしゃいという威勢の良い声が聞こえてきて、スーパーとは別のにぎやかさに包まれる。そしてホカホカの黄色いおしぼりを手渡されたとき、ほっと安らぐことができるのだった。つい最近大人になったばかりのわたしたちはそんな風にして、お腹を満たしながらくだらない話で笑いあい、もう何度目かの青春を過ごしていた。

あれから私たちは順番に社会人となって、バイト仲間のほとんどが地元を離れしまった。中にはもう二度と会わない仲間もいるんだろう。

2020年10月、疫病の流行に伴い客足の途絶える日々が続いた影響で、あの店が24年の歴史に幕を下ろす知らせを受けた。幸いにも私は数少ない地元で就職した側の人間だったので、最後の営業に駆け付けることができた。同じように地元に残っている数人の元バイト仲間とともに、あの店で再会の約束をした。久しぶりに会える仲間たちとあの店のことを想って浮き足立ったまま、そそくさと仕事を終わらせる。バスに乗って懐かしのスーパーの前を通り過ぎ、最後の提灯の灯りを目に焼き付けてから店の扉を開ける。あの威勢の良いいらっしゃいの声も、おしぼりを手渡す奥様の笑顔もなにひつ変わっていないことが心底嬉しかった。

バイト仲間たちは当時の思い出話と、近況報告に花を咲かせながら、営業終了時間までこの店との別れを惜しんだ。わたしは言うまでもなく、焼きおにチーズを注文する。いつもは空腹のまま早々にたいらげてしまうけれど、この日は違う。あの頃の思い出と、もう二度と食べることができないこの味を噛みしめて、大切に頂いた。

大将と奥様は最後、店の入り口までわたしたちを見送りに来て有難うございました、そう言って深々と頭を下げた。こちらこそ、有難うございました。あの頃の私たちの居場所を、そして今日こうしてまた再会する場所となってくれたこと。本当に、ありがとうございました。私はこの先も焼きおにチーズと大将と奥様と提灯の灯りと、ここで過ごしたかけがえのない時間のことを、忘れることはありません。

24年間お疲れ様でした。

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昨夜見た悪夢の話

そこはわたしの部屋で、窓からは電車が見えていた。普通ならあり得ない間取りだけど、窓を開けると同じ高さに線路があって、電車が通るたびに乗客と目が合う。突然、けたたましい衝突音とともに女性の叫び声が聞こえた。その直後部屋の窓が大きく割れた。窓の外ではひしゃげた電車のドアから勢いよく放り投げられる人、人、人、電車の加速は止まることなく、飛び交う叫び声は止むことはなく。住んでいる家の壁と電車が接触して起きた事故だった。無残にも、壁と電車のあいだに挟まれる人もいた。私たちは部屋のなかからその地獄絵図みたいな光景を目の当たりにして、立ち竦むことしかできない。電車を止めろ!と男の人の鬼気迫る罵声が聞こえてきて、電車はなぜか進行方向とは逆向きを帰っていった。見るに耐えない姿の人々を乗せて、血まみれの電車を割れた窓から見送ったところで目が覚めた。am2:28。夢占いをする気も起きないくらいひどく怯えていて、ちいさく丸まりながら落ち着きそうな音楽を急いで再生した。しばらくのあいだうまく呼吸ができなくて、恐怖で心拍数はなかなかおさまらない。私の見る夢は、どうしてこう、いつもこうなんだろう。わざわざ記憶をたどって文字に起こすのは、この夢が自分からの自分に対する潜在的なSOSである気がしてならないからだ。幸せな夢はまったく覚えていないくせに、悪夢であればあるほどハッキリと鮮明に思い出せてしまうのはなぜだろう。

つづきの夜に。

高校の頃通っていた塾でなんとなく仲良くなって、なんとなく帰る方向が同じで、なんとなく話の波長の合う友人から、卒業した今でも約半年~1年周期で連絡が来る。それはあまりにも唐突で、大胆で、毎回いつも驚いてしまうけど、久しぶり、の言葉のあとにわたしはできるだけ直近で空いている日にちを提示するのだ。いつもわたしたちはそのようにして、突然会う約束を取り付ける。

わたしたちは互いが別の高校に通っていたから塾の帰り道にそれぞれの高校生活であった出来事や、些細な憤りや、浮ついた色恋話なんかを小一時間話して帰路についていくのが日課だった。利害関係がない分、同じコミュニティの女子たちに話すよりずっと本音を話すことができて嬉しかった記憶がある。そんな夜を地続きにしたまま、今日までつながっているような感覚。わたしたちは公園のベンチからところ変わって居酒屋にて、向かい合わせに乾杯をする。グラスを傾けた瞬間から目にも止まらぬ速さでふたりは会話を始めるのだった。彼女はわたしの性格と相反して、論理的で正義感が強く芯のある女の子。そんなあなたの口からあふれ出る日常に対する意見や、不平不満は他の誰よりセンスがあるからなんだか昔から少しも嫌な感じはなくて、まるで漫談を聞かせてもらっているみたい。悪口にはユーモアが無いと聞くに堪えないからね。わたしよりずっと賢くて、県内の有名な進学校へと進んだ彼女は、自分の意見を貫き通す度胸もあるからわたしまで力強い気分になれて頼もしい。よく二人の話題に上がるのは、隣の青く生い茂る芝生の話だとか、どう解釈しても許せないことや、自分のなかにある正義と、人生に対するわたしたちなりの見解だった。彼女は話すこともさることながら本当に聞き上手だから、普段人に話すことを憚られるパーソナルな過去だっていつの間にか話してしまえる。彼女は論理的で賢いけれど、愚直で人の痛みのわかる女の子だってことわたしは知っていて、きっと話をしても受け入れてくれるだろうと思っていたから躊躇いなく話すことができたんだ。わたしの話した過去は結構重苦しいものだから、できる限りおどけながら話したつもりだったけど、彼女は目に涙を浮かべながら相槌を打ってくれたことが印象的だった。かくいう彼女も、学生時代から悩んでいた家族の話を涙ながらに話してくれた。わたしたちの話題に上がる「隣の青く生い茂る芝生の話」、これはただあの子の芝生はキレイだ、いや劣っている、なんて話しているわけではなくて、その青々とした芝生が完成される背景にある試練や苦労を彼女と私はおそらく、全部わかってる。だから妬みや嫉みのないただ純粋な憧れをお互いに共有できる時間になる。そんな話をできる友人は、数少ない。大抵は青く生い茂る芝生をみてどうしてあの子だけ、どうして私にはないのだろう、と息巻く人のほうが多いから。

他人の芝生をほめそやし、覗き見ることはするけれど、結局のところ自分の芝生は自分に見合う美しさを持っているのだからなんら心配する必要がないんだろうな。彼女と話していると、そんな前向きな気持ちにもなるのだった。いつも彼女の唐突な誘いは、わたしがうつむいているときを狙ってきているみたいで、なんてタイミングがいいんだろう。次の続きの夜があるのなら、今日より前を向いていたい。

 

灯台下暮らし

この8畳1Kでの暮らしを初めて1か月と少し。随分とこの部屋も私のことを家主として認識し、受け入れ始めてくれているのではないかと思う。朝、カーテンを開けると南西向きにある窓から、満遍なく日差しが入る。洗濯物が乾きやすく西日が見られることを理由に、ただそれだけを理由にしてこの部屋を契約した自分に感謝する。24年間住んだ実家の部屋は北向きで、日差しが入ることは一度だってなかった。昼間でもやけに薄暗く湿っぽい部屋に帰ることに嫌気がさして連日帰らない日も多くあった。(もちろん理由はそれだけではない)今の部屋は4階で特段景色が素晴らしいわけではない。すぐそばにある電柱がなんならすごく邪魔なのだが、毎朝その南西向きの窓からしばらく景色を見つめたあと、深呼吸をするのだった。夜、仕事を終えてそばにあるスーパーで適当に食材を買い込み帰宅すると、玄関から程近くにある洗面所から柔軟剤の香りが漂ってくる。実家では母の独断で、特売の安い柔軟剤が使われていたから、自分の好きな香りをまとって過ごせることはなんて気分が良いんだろう。今朝洗濯物を済ましておいてよかった。1Kの部屋のつくりは生活動線が単純で、面倒で後回しにしていたお風呂もいまでは真っ先に済ませてしまえる。実家では一切手を付けることがなかった炊事、洗濯、掃除。ことのほか苦痛なくこなせる自分の以外な一面に驚く。奮発して買った新品の家電製品はどれも自分が選んだ好きなものばかりだから、みな愛着をもって扱うことができるんだろう。連日酷暑が続いているうえ、疫病の流行も関係して外に出ることが憚られるため、一日中こうして文章を書いたり読んだりして過ごしている。部屋を見渡すとついこの間まで一緒にいたひとに組み立ててもらった家具の多いこと、多いこと。これから新しく家具などを迎え入れるときは、いちから一人で組み立てていかなければならないんだな。こんなことになるのなら、最初から部屋に立ち入らないようにすべきだった。新しい部屋なのに、冷蔵庫の奥に洗濯機の中に机の下に面影を見つけてしまって仕方がない。これらもじきに消えていくのだろうか。長い休みを利用して少しだけ実家に立ち寄った。相変わらず真昼間であっても薄暗く、全体的に湿度が高い。築40年はゆうに超えているからところどころに綻びもみえる。けれど、目を閉じていてもどこになにがあるのかが手に取るようにわかるし、思い出で埋め尽くされた自分の部屋の居心地の良さは、新品のそれとは肌馴染みが全く違うように感じられた。住んでいるときは全く気が付けなかった。手を放してみて少し離れた距離から眺めれば、こんなにもすぐにわかるのに。f:id:rccp50z:20201112123712j:image

20200812

わざと部屋の一番目立つところに、あの夜引き渡された大きな紙袋を置いている。そのなかにはわたしが使っていたパジャマとエプロンと洗面用具、そしてもう二度と元に戻ることはないという強い決意が、丁寧に畳んで入れられていた。部屋に入るたびにわたしはその紙袋をしばらく見つめ、まだ微かに残る柔軟剤の香りを嗅いで、日に日に薄れていくことを思い知る。これをひとつの指標とし、じきに消える香りと共に、ふたりの終わりを思い知るのだ。

あの日わたしは去っていく乗り慣れた車のテールランプがやさしく点滅しないことと、運転席の窓を開けて振る手が見えないことをしっかりこの目で確認したあと情けなく駐車場の縁石にへたりこみ、しゃくり上げて泣いた。深夜0時をすぎたアパート前の大通り、わたしを見てギョッとしたまま横を通り過ぎる通行人を気にも留めずに。一向におさまる気配がなかったため夜遅くに忍びないなと思いながら、信頼できる人に立て続けに電話をかけてわたしが泣いている理由を一方的に話し続けた(迷惑な話だと思う)慣れたもので(こういった事態がこれが初めてではないから)電話の向こうの人は励ましの言葉を並べて、泣き止むまでわたしの話を静かに聴いた。深夜、泣きすぎたせいか横隔膜が痛み、そのせいで何度も何度も目が覚めた。染み付いた習慣はこんなことで簡単に崩れることなく、いつも通り6時13分に起きて朝のニュースをながめていたら視界に紙袋がみえてまた泣けた。とくに意識しているわけでもないのに、溢れ出てどうにも止めることができないそれに抗うことを遂には諦めて、醜く腫れたまぶたにいつもより丁寧な化粧を施すのだった。

この苦しみは四苦八苦のうちのひとつ愛別離苦というんだそうだ。それは愛が強ければ同じだけ苦しみもひときわ強く残るという意味のそれだ。かつてブッダ愛する人と死別し"こんなにひどく辛い苦しみを背負うものは自分以外いるはずがない"と嘆く女にたいして「その苦しみを忘れたければ"愛する人を失ったことがない家"だけで採れる果実を探してくるといい、それを食べれば治癒するだろう」そう説いたそうだ。女は、来る日も来る日も探し歩くのだが果実以前に、「"愛する人を失ったことがない"家」を見つけることが出来なかった。ブッダは、愛別離苦は誰にでも起こりうる苦しみの一つであり、愛がこの世の真理(人はやがて死ぬこと・出会った者はじきに別れるということ)から目を背けさせるゆえに、愛を向ける矛先を失った途端、真理を目の当たりにし、苦しむのだと説いた。乗り越える術は、果実を見つけることよりも先にこれらを全て受け止めるほかないのだとも。

今日は近年稀に見る酷暑だった。夕沈みが息を呑むほどうつくしくて、ダイエット中だったけど通りがかったコンビニで新発売のスイーツを思わず手に取り買ってしまった。ふと、愛別離苦についての法話も、巷の失恋ソングも、「失った側」のきもちしか記されていないことにようやっと気づく。わたしが忘れてはならないのは、些細な身の上話を打ち明ける最も身近な人間が手の届く範疇にもういないことと、わたしは真にひとりだということ。そうしてそれを望んだのは、この苦しみを持ってしても一人でいることを選んだのは、まぎれもなく自分だということ。f:id:rccp50z:20200816015427j:image

カスタマイズ人生

今年も無事生きて、25歳をむかえることができました。おめでとうございます。を、ありがとうございます。いくつもの祝福たちを小脇に抱えて、一日中はにかむ頬を内側から噛み締めながら仕事に励んでいた。今年はいよいよ嬉しくなくなるだろうと思っていたのに、誕生日はうれしい日に違いないのだった。なんなら前日からワクワクが止まらないのだった。0時00分から踊り出したくもなったが、25歳なので大人しく過ごすのだった。四半世紀を生きてきた証に、25歳のわたしが見ている景色を残していきたいとおもう。

毎年、誕生日を迎えるひとつきほど前から、これまで書き記してきた4年分の記事を読み返してみる。その度に、当時の幼い自分を俯瞰して見たり、変わらない自分に安堵することがほとんどだが、今年は驚くべきことにたった一年前の記事でさえ、共感することができない。

一年前のわたしは、物事を選択することを極度に恐れていた。自分の選択にひとつも自信が持てなかった。いつも何らかの分岐点に立たされたとき、選ばなかった道の方を向いては、あちらのほうが美しく見えるものだなと選んだ道の景色も知らずに、ただ下を向いて小石を蹴りながら頭を垂れていた。そんなことを繰り返しているうちに、自分が進みたい方向をついには見失って、どの道に出てもわたしが望んだ景色ではなくなっていた。

ふと、わたしが選ぶ道は今まで誰かのための道だったことに気づく。わたしがほんとうに進みたい道などではなくて、誰かがわたしに進んでほしいだろう道を自然と、何の疑いもなく選んでいたから(一度も頼まれてなんかいないのに)いつも踏み出す一歩に躊躇いがあった。誰かの顔色を伺って、NOを伝えることにおびえて、更にはこちらを選んだほうが喜ぶひとがいるからという基準で、わたしは歩いてきた。

25歳を迎えるにあたり、わたしはわたしが望む道のみ選ぶこととした。しかしその瞬間から、大きな勇気を伴うことになったのはいうまでもない。20代も半ばに差し掛かるとその道が、たとえ舗装されていなくても、急な斜面が立ちはだかっていても、すべて歩くことを決めた自分の責任になるのだ。道中で何者かに襲われようが熊があらわれようが、自分の身は自分で守らなくてはならない。

21歳の時分はこうした責任を背負うことがいやでいやで仕方がなくて、だから歳を取りたくなかったんだけど、責任があるからこそ手に入れられる景色を知った今、これからの人生を自分の意志で歩いていけることに誇りすら感じる。大人になれてよかった。もうすこし歳を取ったらたとえば、靴を高く放り投げて上を向いたら左とか、サイコロの目の数だけ曲がるだとか、そういったこともしたい。どんな道に出ようとも、それは初めから進むべきことが決まっており、そのどれもがわたしにとって必要な道であるはずだから。

年始に掲げた脱○○という目標を遂行すべく、必要なものとそうでないものを、慎重かつ大胆に精査してきた半年間。わたしが選んだこだわりの未来は、今までよりも身軽で、ずっと遠くまで飛べそうな気がしている。26歳のわたしも、はたまた30歳のわたしも、自分の選んだ道を歩いていてほしいと願う。その時はどうか顔を上げて、あっというまに過ぎていく景色を目に焼き付けながら、あとはしばらく道なりに。

 

 

 

追伸 一年前の投稿でもわたしは選ぶことについて書いている。