パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です

アンチモニー

話したいことなんて山ほどあった。なにを話してもきっと細い目を更に細めて笑ってくれるに違いなかった。大学を無事に卒業して、かけがえのない思い出を作ったこと 就職先も無事に決まって上司は恐ろしいけれど愛のある人だということ 恋愛においては傷つけたり たまに傷つけられたりしながらも本気で人を好きになったりすきになられたりしたこと。そんなたわいもないようなわたしの暮らしを、会えなかったあいだに過ごしてきた日々のことを、ただ聞いてくれさえしたらそれでよかった。

あの頃わたしはまだ学生で、途方も無い時間を持て余すように退屈に過ごしていました。会いに行くことだっていくらでもできたはずなのに、目の前にある自分の時間がいちばん大切だと思っていた。腰の高さまでしかなかった背丈を、追い越したのはいつからだろう。いつのまにかしなくなった文通や、好きだった布団のにおい、丁寧に愛情を注ぎ育ててきた庭の花々も、だいすきだったかぼちゃの煮付けの味でさえ、今日この日まですっかり忘れてしまっていた。自分は思っている以上にずっと、薄情なやつなのかもしれません。

そう言えばずっと聞きたいことがあったんだけど、小3のときいくらせがんでもくれなかった宝物を、突然くれたのはどうしてだったの。流れるあのメロディはなんていう曲なの。聞きたいことは、話したいこと以上にやまほどあった。

三年前に見たすがたとはまるで違った。おもわず目を背けたくなってしまうほど、ずっと苦しそうだった。耳は聞こえていると言われたから、たくさん話しかけたけど聞こえていたのかな。ほんの少しだけ、おだやかな表情がみえたのは気のせいでしょうか。時折身をよじらせて、なにかを訴えているようにもみえた。どこを探してもわたしの知っている明るい笑顔は、見当たらなかった。

大切な人に、少しでも長く生きていてほしいと願うこと。それは正しいことだと思う。けれど、恐らくそんな綺麗事ばかりが世の中のすべてではないのです。どんな姿になっても生きていてくれたらそれでいい、というのは健やかに生きている人間のエゴだとおもう。

たとえもう二度と会えなくなってしまっても、温かい手を握ることができなくなったとしても、笑っていてほしい、どうか幸せでいてほしい。そう心から願った。もう生きることを頑張らなくてもいいんだよ、なんて感情を人に対して抱いたのは初めてだ。不謹慎と言われても仕方がなかった。覚悟はしていた、顔のそばで、シーツにこぼれおちた涙の跡が残る。こんな姿になってまで、苦しまなければならない理由が見つからない。がんばってね、生きていてね、どうか、どうか。そんなことはひとつだって願わなかった。わたしはわたしの人生をきちんと生きるから、最後まで見守っていてください。そして神様、苦しみや悲しみから最も遠い場所へ、連れて行ってあげてください。あの時もらった宝物のオルゴールのことをすこし調べてみたけれど、細やかな装飾が施されたそれのことを、アンチモニーとよぶらしい。トロフィーやメダルにも使われる細工のことを指す。これにどんな思い出が詰まっているのか知ることができなかった、わたしはこれから少しずつ思い出をしまっていこう。蓋を開けて流れるあのクラシックの曲名のことは、知らないままでいよう。