パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です

利他主義とバクシーシ

 

先日読んだ記事にあった 印象的な一節。

ちょっとした親切に感謝の念を抱いたのなら、あなたも誰か身の回りの困っている人に、同じようにちょっとした親切を施してください。いや、別にお金をあげてくれとかそういう意味ではないです。自分のできる範囲で、ささいな親切を施してくれればそれで結構です。

ここに出てくる バクシーシ(施し)

これは日本でいう「因果応報」と同じだろうか。「情けは人の為ならず」にも似たニュアンスを感じる。よくインドへ自分探しの旅にでる人々はもしかしたらこの概念を学ぶために行くのかもしれない。わたしにはバクシーシの精神が欠けている。最近よく思う。わたしのまわりにいる友人たちにはこれが程よく身につけられていて 当人たちにとればなにも特別なことではないようだけれど、わたしにとってそれは日常的に意識するにはとても難易度の高いものだった。自分以上に相手のことを思いやる、いわば「利他主義」がまるで備わっていないとかんじる。

これは一人っ子であることが大きく関係している。といったら全世界の一人っ子に失礼に聞こえるのかもしれない。が、生まれた時から愛情を一身に受け育ち、それを折半するでもなくおなかいっぱい独り占めして蓄えながら この歳まで生きてきた者は少なからず兄弟がいる者たちよりかは分け与えるだとか、自分よりも相手に尽くす「利他主義」に欠けているのではないだろうか。

そんなことを思いながらsnsで人の誕生日について考えていた。誕生日は、冠婚葬祭の次にその人の、ひととなりが垣間見える瞬間なのではないかとおもう。祝いを施す人、物、規模。それが派手であればあるほどその人が周りにもたらしてきたバクシーシを感じられる。

もちろん自分の誕生日は素晴らしいものだった。すばらしくなかった年は、ない。何人もの人がわたしのために祝いの言葉を、ものを、気持ちをくれた。それに対してわたしはきちんと返すことができているのだろうか。不安になった。自分はあれだけ祝ってもらったくせに、感謝しているくせに同じ大きさのお返しができないのだ。それは金銭的余裕にも関係するけれどそれでももう少し人のために自分の身を削るべきだと、自分の中にいるもう一人の自分が言い聞かせてくる。毎月の給料は自分の娯楽に当てているし、プレゼントをくれたあの子にはまだ返していない。物の有無で感謝の念は計れないといえど一番わかりやすい気持ちの伝え方であることは確かだ。

なによりもひとを優先して考えられるとある友人が不思議で仕方ないし見習うべきだと心底思う。バクシーシのようにその人に直接ではなくても、自分が受けた恩はあらゆる形で人に与えていかなければいずれ、循環が滞ってわたしには回ってこなくなってしまう、そんな不安に苛まれていた。一人っ子だからなんて言い訳はよして、わたしは人のために生きれる人になりたい。まだまだわたしの芝生は青くない。