パンチラ追って知らない街へ

すべて作り話です

‐ピンクネオン‐

月末にはここをやめるの。毎週火曜日に訪れる常連のその人はお酒を飲む手をピタリと止めて、わたしの顔を覗きみた。それは、本当に?兼ねてからわたしはただのアルバイトにすぎなくて、一生をここで従事するつもりはないということを伝えていたはずだったけれど。その報告があまりに唐突だったのか、その人はひどく落ち込んでしまったようにみえた。

 水商売に足を踏み入れたきっかけは、友達のそのまた友達の紹介だった。簡単に稼げる仕事があるんだけど、やってみない?その話を受けるまで興味もなければ関心すらなく「そういう仕事」をすることはいけないことだと認識していたわたしが「そういう仕事」をするなんて思ってもみなかったんだ。だけど時給は今までしてきたアルバイトの倍あって、都合のいい仕事だと軽い気持ちで入店した。初めのうちは、水商売にまつわる偏見がどうしてもぬぐいきれなかった。親にバレたら、友達にバレたら、きっと軽蔑されるにちがいない。水商売の世界には、生い立ちに難があり、金銭的な事情を抱えている貞操観念のゆるい女が男をたぶらかし、お金を巻き上げていく卑しいものだと信じてやまなかった。 

  わたしは幼い頃から人よりずっと真面目で、親の存在が絶対的な一人っ子だったから言うことはよく聞いていた。逆らって叱責されることを何より恐れて、とうとう反抗期なるものはやってこないまま成人した。せめてもの反骨心、わたしは心のどこかで「不真面目になりたい」ずっとそう思ってきたんだろう。しかし、今なら言える。わたしは全くの無知だった。想像通り貞操を守らない女も、その日暮らしの女もいたが、水商売は人一倍の気配りと、献身的な心遣いが必要な、根性のいる仕事だった。ただ笑い、色目を使いながら男にお酌をする「不真面目」な仕事では決してなかった。

わたしが在籍していた店は、系列店を含めると4店舗。その全てを取り仕切るママがいた。そのママがかつて一斉を風靡していた頃、馴染みだった客が今でもママに会いに来て、昔を懐かしみながらお酒を嗜む場所だった。二十数年来の常連客がほとんどを占めていて、今は地元を離れ働いている人も遠方から訪れては、あの頃は良かった、そう口を揃えて皆おなじ話をしていた。わたしの知らない時代を生きた大人たちが話す思い出話は、どれも愉快で突拍子もなく、なにより破天荒だった。現代の若者たちにはとうてい理解することができないであろう血気盛んな時代の話をよくしてくれた。

ママは幾度となくわたしたちに教示する。女にしか出せない愛嬌あるやわらかい笑み、丸みを帯びたからだつき、男を癒し、もてなす数々の建前、その全てが武器であること。自分自身が商品であるこの世界で、己の美醜に対する関心はもちろん、客席での立ち居振る舞いには厳しかった。身なりのなっていない女に、男たちの多くは蔑んだ品のない言葉を投げかけて、優位に立とうとした。そういった対象には絶対なりたくなかった。水商売をはじめてからわたしは「身の丈に合った華やかさで自分を着飾ること」がどれだけ大切なのかを身をもって学ぶことができたんだ。女としての価値がなければこの世界では生きて行けない。この店で働いているホステスたちの多くは、自信に満ち溢れている顔をしていた。

客に好みの顔立ちだからという理由で、尻に触れたことを咎めただけで、頰にキスをするだけでささやかな おひねり がもらえた。自分のお金で買うには躊躇う様々なものを買い与えられ、同伴でこれまで食べたことのない贅沢な食事にありつけた。ここにいることはわたしにとって、例えるならばゆるやかな毒だった。甘くてやわらかくて、わたしの自尊心を一切傷つけることのないその毒は、それが悪しきものだとは気づくことができない。わたしたちが男性に建前を並べるように、男性たちもまたわたしたちを華のように扱った。「自分のためにお金と時間を費やしてくれる人がいる」そういった誰かに必要とされているという確固たる自負が、ここにいると誰よりも強くなる。誰しもが容易に、自分がまるで高貴な女にでもなれたかのような錯覚に陥ることができる。それは一度手に入れてしまえば手放し難いものだった。このままいたらゆるやかに、そして気づかないうちに堕落していく。そんな恐怖がわたしの中にうずまいていた。

就職を理由に、わたしはこの世界から最も美しいかたちで退くことを決意した。ほとんどは客やキャスト同士のいざこざに苛まれて翌日から忽然と姿を消す終わり方が多く、きちんと最後の日を伝えやめていくことに驚かれた。非常に稀なケースらしい。店での関係といえどあまりにも個人に深く関わりすぎる仕事柄、どうしても感謝を伝えたかった。こうして客ごときに情を抱くあたりがことごとく、この仕事が向いていないと感じる瞬間だった。最後の夜、辞めることを事前に伝えた客たちがたった数時間わたしと隣で話すために、20組近く訪れた。最後までわたしを口説き落とそうと前のめりになって食事に誘う人も、架空の就職話を真に受け応援してくれる人も、わたしに会えなくなることを嘆き悲しみながら4セット居座った人も、もう会うことは無いのだと思うと、ほんの少しだけ寂しかった。これだけ多くの人に自分自身が求められることは、この先経験することがない気がする。この場所で全くの別人として過ごした夢のような一年はたまらなく楽しかったけれど、ここはきっと長く居ていい場所ではない。さようなら、大好きな街の、きっともう二度と会わない人たち。

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つづきの夜に。

高校の頃通っていた塾でなんとなく仲良くなって、なんとなく帰る方向が同じで、なんとなく話の波長の合う友人から、卒業した今でも約半年~1年周期で連絡が来る。それはあまりにも唐突で、大胆で、毎回いつも驚いてしまうけど、久しぶり、の言葉のあとにわたしはできるだけ直近で空いている日にちを提示するのだ。いつもわたしたちはそのようにして、突然会う約束を取り付ける。

わたしたちは互いが別の高校に通っていたから塾の帰り道にそれぞれの高校生活であった出来事や、些細な憤りや、浮ついた色恋話なんかを小一時間話して帰路についていくのが日課だった。利害関係がない分、同じコミュニティの女子たちに話すよりずっと本音を話すことができて嬉しかった記憶がある。そんな夜を地続きにしたまま、今日までつながっているような感覚。わたしたちは公園のベンチからところ変わって居酒屋にて、向かい合わせに乾杯をする。グラスを傾けた瞬間から目にも止まらぬ速さでふたりは会話を始めるのだった。彼女はわたしの性格と相反して、論理的で正義感が強く芯のある女の子。そんなあなたの口からあふれ出る日常に対する意見や、不平不満は他の誰よりセンスがあるからなんだか昔から少しも嫌な感じはなくて、まるで漫談を聞かせてもらっているみたい。悪口にはユーモアが無いと聞くに堪えないからね。わたしよりずっと賢くて、県内の有名な進学校へと進んだ彼女は、自分の意見を貫き通す度胸もあるからわたしまで力強い気分になれて頼もしい。よく二人の話題に上がるのは、隣の青く生い茂る芝生の話だとか、どう解釈しても許せないことや、自分のなかにある正義と、人生に対するわたしたちなりの見解だった。彼女は話すこともさることながら本当に聞き上手だから、普段人に話すことを憚られるパーソナルな過去だっていつの間にか話してしまえる。彼女は論理的で賢いけれど、愚直で人の痛みのわかる女の子だってことわたしは知っていて、きっと話をしても受け入れてくれるだろうと思っていたから躊躇いなく話すことができたんだ。わたしの話した過去は結構重苦しいものだから、できる限りおどけながら話したつもりだったけど、彼女は目に涙を浮かべながら相槌を打ってくれたことが印象的だった。かくいう彼女も、学生時代から悩んでいた家族の話を涙ながらに話してくれた。わたしたちの話題に上がる「隣の青く生い茂る芝生の話」、これはただあの子の芝生はキレイだ、いや劣っている、なんて話しているわけではなくて、その青々とした芝生が完成される背景にある試練や苦労を彼女と私はおそらく、全部わかってる。だから妬みや嫉みのないただ純粋な憧れをお互いに共有できる時間になる。そんな話をできる友人は、数少ない。大抵は青く生い茂る芝生をみてどうしてあの子だけ、どうして私にはないのだろう、と息巻く人のほうが多いから。

他人の芝生をほめそやし、覗き見ることはするけれど、結局のところ自分の芝生は自分に見合う美しさを持っているのだからなんら心配する必要がないんだろうな。彼女と話していると、そんな前向きな気持ちにもなるのだった。いつも彼女の唐突な誘いは、わたしがうつむいているときを狙ってきているみたいで、なんてタイミングがいいんだろう。次の続きの夜があるのなら、今日より前を向いていたい。

 

灯台下暮らし

この8畳1Kでの暮らしを初めて1か月と少し。随分とこの部屋も私のことを家主として認識し、受け入れ始めてくれているのではないかと思う。朝、カーテンを開けると南西向きにある窓から、満遍なく日差しが入る。洗濯物が乾きやすく西日が見られることを理由に、ただそれだけを理由にしてこの部屋を契約した自分に感謝する。24年間住んだ実家の部屋は北向きで、日差しが入ることは一度だってなかった。昼間でもやけに薄暗く湿っぽい部屋に帰ることに嫌気がさして連日帰らない日も多くあった。(もちろん理由はそれだけではない)今の部屋は4階で特段景色が素晴らしいわけではない。すぐそばにある電柱がなんならすごく邪魔なのだが、毎朝その南西向きの窓からしばらく景色を見つめたあと、深呼吸をするのだった。夜、仕事を終えてそばにあるスーパーで適当に食材を買い込み帰宅すると、玄関から程近くにある洗面所から柔軟剤の香りが漂ってくる。実家では母の独断で、特売の安い柔軟剤が使われていたから、自分の好きな香りをまとって過ごせることはなんて気分が良いんだろう。今朝洗濯物を済ましておいてよかった。1Kの部屋のつくりは生活動線が単純で、面倒で後回しにしていたお風呂もいまでは真っ先に済ませてしまえる。実家では一切手を付けることがなかった炊事、洗濯、掃除。ことのほか苦痛なくこなせる自分の以外な一面に驚く。奮発して買った新品の家電製品はどれも自分が選んだ好きなものばかりだから、みな愛着をもって扱うことができるんだろう。連日酷暑が続いているうえ、疫病の流行も関係して外に出ることが憚られるため、一日中こうして文章を書いたり読んだりして過ごしている。部屋を見渡すとついこの間まで一緒にいたひとに組み立ててもらった家具の多いこと、多いこと。これから新しく家具などを迎え入れるときは、いちから一人で組み立てていかなければならないんだな。こんなことになるのなら、最初から部屋に立ち入らないようにすべきだった。新しい部屋なのに、冷蔵庫の奥に洗濯機の中に机の下に面影を見つけてしまって仕方がない。これらもじきに消えていくのだろうか。長い休みを利用して少しだけ実家に立ち寄った。相変わらず真昼間であっても薄暗く、全体的に湿度が高い。築40年はゆうに超えているからところどころに綻びもみえる。けれど、目を閉じていてもどこになにがあるのかが手に取るようにわかるし、思い出で埋め尽くされた自分の部屋の居心地の良さは、新品のそれとは肌馴染みが全く違うように感じられた。住んでいるときは全く気が付けなかった。手を放してみて少し離れた距離から眺めれば、こんなにもすぐにわかるのに。気づいたのがおそかった、なんてよくある話で笑っちゃう。

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わざと部屋の一番目立つところに、あの夜引き渡された大きな紙袋を置いている。そのなかにはわたしが使っていたパジャマとエプロンと洗面用具、そしてもう二度と元に戻ることはないという強い決意が、丁寧に畳んで入れられていた。部屋に入るたびにわたしはその紙袋をしばらく見つめ、まだ微かに残る柔軟剤の香りを嗅いで、日に日に薄れていくことを思い知る。これをひとつの指標とし、じきに消える香りと共に、ふたりの終わりを思い知るのだ。

あの日わたしは去っていく乗り慣れた車のテールランプがやさしく点滅しないことと、運転席の窓を開けて振る手が見えないことをしっかりこの目で確認したあと情けなく駐車場の縁石にへたりこんだ。しゃくり上げて泣いた。深夜0時をすぎたアパート前の大通り、わたしを見てギョッとしたまま横を通り過ぎる通行人を気にも留めずに泣き続けた。一向におさまる気配がなかったので、夜遅くに忍びないなと思いつつ信頼できる人に立て続けに電話をかけ、わたしが泣いている理由を一方的に話し続けた(迷惑な話だと思う)慣れたもので(こういった事態がこれが初めてではないから)電話の向こうの人は励ましの言葉を並べて、泣き止むまでわたしの話を静かに聴いた。深夜、泣きすぎたせいか横隔膜が痛み、そのせいで何度も何度も目が覚めた。染み付いた習慣はこんなことで簡単に崩れることなく、いつも通り6時13分に起きて朝のニュースをながめていたら視界に紙袋がみえてまた泣けた。とくに意識しているわけでもないのに溢れ出てどうにも止めることができないそれに抗うことを遂には諦めて、醜く腫れたまぶたを見つめながらいつもよりも丁寧に化粧を施すのだった。

この苦しみは四苦八苦のうちのひとつ愛別離苦というんだそうだ。それは愛が強ければ同じだけ苦しみもひときわ強く残るという意味のそれだ。かつてブッダ愛する人と死別し"こんなにひどく辛い苦しみを背負うものは自分以外いるはずがない"と嘆く女にたいして「その苦しみを忘れたければ"愛する人を失ったことがない家"だけで採れる果実を探してくるといい、それを食べれば治癒するだろう」そう説いたそうだ。女は、来る日も来る日も探し歩くのだが果実以前に、"愛する人を失ったことがない"家を見つけることが出来なかった。ブッダは、愛別離苦は誰にでも起こりうる苦しみの一つであり、愛がこの世の真理(人はやがて死ぬこと・出会った者は別れるということ)から目を背けさせるがゆえに、愛を向ける対象を失った途端、真理を目の当たりにし苦しむのだと説いた。乗り越える術は、果実を見つけることよりも、これらを受け止めるほかないのだとも。

今日は近年稀に見る酷暑だった、夕沈みが息を呑むほどうつくしくて、通りがかったコンビニで新発売のスイーツを思わず手に取り買ってしまった。

愛別離苦についての法話も、巷の失恋ソングもそうだけど、失った側のきもちしか記されていないことにようやっと気づく。わたしが忘れてはならないのは、些細な身の上話を打ち明ける最も身近な人間が手の届く範疇にもういないことと、わたしは真にひとりだということ。そしてそれを望んだのは、この苦しみを持ってしても離れることを選んだのは、まぎれもなく自分だということ。f:id:rccp50z:20200816015427j:image

カスタマイズ人生

今年も無事生きて、25歳をむかえることができました。おめでとうございます。を、ありがとうございます。いくつもの祝福たちを小脇に抱えて、一日中はにかむ頬を内側から噛み締めながら仕事に励んでいた。今年はいよいよ嬉しくなくなるだろうと思っていたのに、誕生日はうれしい日に違いないのだった。なんなら前日からワクワクが止まらないのだった。0時00分から踊り出したくもなったが、25歳なので大人しく過ごすのだった。四半世紀を生きてきた証に、25歳のわたしが見ている景色を残していきたいとおもう。

毎年、誕生日を迎えるひとつきほど前から、これまで書き記してきた4年分の記事を読み返してみる。その度に、当時の幼い自分を俯瞰して見たり、変わらない自分に安堵することがほとんどだが、今年は驚くべきことにたった一年前の記事でさえ、共感することができない。

一年前のわたしは、物事を選択することを極度に恐れていた。自分の選択にひとつも自信が持てなかった。いつも何らかの分岐点に立たされたとき、選ばなかった道の方を向いては、あちらのほうが美しく見えるものだなと選んだ道の景色も知らずに、ただ下を向いて小石を蹴りながら頭を垂れていた。そんなことを繰り返しているうちに、自分が進みたい方向をついには見失って、どの道に出てもわたしが望んだ景色ではなくなっていた。

ふと、わたしが選ぶ道は今まで誰かのための道だったことに気づく。わたしがほんとうに進みたい道などではなくて、誰かがわたしに進んでほしいだろう道を自然と、何の疑いもなく選んでいたから(一度も頼まれてなんかいないのに)いつも踏み出す一歩に躊躇いがあった。誰かの顔色を伺って、NOを伝えることにおびえて、更にはこちらを選んだほうが喜ぶひとがいるからという基準で、わたしは歩いてきた。

25歳を迎えるにあたり、わたしはわたしが望む道のみ選ぶこととした。しかしその瞬間から、大きな勇気を伴うことになったのはいうまでもない。20代も半ばに差し掛かるとその道が、たとえ舗装されていなくても、急な斜面が立ちはだかっていても、すべて歩くことを決めた自分の責任になるのだ。道中で何者かに襲われようが熊があらわれようが、自分の身は自分で守らなくてはならない。

21歳の時分はこうした責任を背負うことがいやでいやで仕方がなくて、だから歳を取りたくなかったんだけど、責任があるからこそ手に入れられる景色を知った今、これからの人生を自分の意志で歩いていけることに誇りすら感じる。大人になれてよかった。もうすこし歳を取ったらたとえば、靴を高く放り投げて上を向いたら左とか、サイコロの目の数だけ曲がるだとか、そういったこともしたい。どんな道に出ようとも、それは初めから進むべきことが決まっており、そのどれもがわたしにとって必要な道であるはずだから。

年始に掲げた脱○○という目標を遂行すべく、必要なものとそうでないものを、慎重かつ大胆に精査してきた半年間。わたしが選んだこだわりの未来は、今までよりも身軽で、ずっと遠くまで飛べそうな気がしている。26歳のわたしも、はたまた30歳のわたしも、自分の選んだ道を歩いていてほしいと願う。その時はどうか顔を上げて、あっというまに過ぎていく景色を目に焼き付けながら、あとはしばらく道なりに。

 

 

 

追伸 一年前の投稿でもわたしは選ぶことについて書いている。

すがる

祖父の納骨式のあと、ちえこさん(父方の叔母)からひさしぶりに会わないかと連絡が来た。祖父の葬式で会ったのが十数年ぶりで、それまではお互いの存在にさして興味がなかったんだろうとおもう。知ろうともしなかったし、知ってほしいとも特に思わなかった。

幼い頃、ちえこさんの身振り手振りの大きい話し方や、おおげさなリアクションが子供ながらにおもしろおかしくてよく二人で笑い合った記憶が多い。母とはやっぱり仲が悪いので、自由に会わせてもらえることは少なく祖母の認知症が発覚してからは父を介して会いに行くことも無くなっていた。

そんなちえこさんからの誘いは少なからずうれしくて、どんな話をしようか、どんな話を聞こうかほんの少し緊張しながらもむかえたその日。最近の身の上話をしている時にふと、ちえこさんから「最近悩んでいることはないのか?」とたずねられた。もちろんあるけれど、、と伝えたところで「そういうことは早く解決しておかなくちゃ、そういえば神戸にとても有名な信頼できる力を持った人がいてね、その人に話すと心が軽くなって、悩み事が晴れて、何事も良い方向に進んでゆくのよ。」まずい、と思った。これはおかしな話だと感じた。かねてよりわたしは自分の身に降りかかる危険にたいする勘は鋭いほうだ。第六感をしんじている。それは、すなわち、いわゆる、宗教の勧誘だった。

しばらく関わり合いのなかった姪を、突然食事に誘ったのは、身の上話をとことん引き出していたのは、すべてこの瞬間のための時間だったのか。この本質的なことを口にせず、察しを求める薄気味悪い感じ。察するまでに要した時間約0.2秒、悲しくなった。

そこからのわたしは早口で捲し立てるように「わたしは悩んでいる、この悩みは日々尽きることはなくなんと毎日増えていく。けれど、わたしには助けを求めればすぐに駆けつけてくれる人と、道を逸れないよう指導してくれる人と、どうしようもない悲しみに暮れたとき話だけを真摯に聞いてくれる人、周りにいるからそういうの、わたし全く必要ない。全然いらない。」一息にそう伝えて、でもせめて空気を悪くしないようにと、そのあとは必死に盛り上げを試みた。残ってる食事をかきこんで、そそくさと帰ってきた。わたしにすがる場所なんて必要ない、わたしはそんなに弱くない。舐めてもらっちゃ困る、こうしてめずらしく腹を立てながら。

2020年-元日-

近所にある氏神様のもとで「仕事御守」を買った。毎日持ち歩いている。いつもは財布に入れているけど、不安に苛まれそうなときはスーツの胸ポケットにいれて、手を添えて願いを込める。長野県にあるパワースポットに足を運び、有名な石仏様のもとをおとずれて、その周りを願いを唱えながら三周回って、手を合わせた。その石仏様ならではの唱え方がご丁寧にそばに掲げてあってから、しかと守った。するとどうだろう、最近仕事が順調な気がする。気がする。関わる人たちがみな素晴らしく、世界が光に満ち溢れている、気がする。良い 気 がわたしのまわりに渦巻いているようかんじる。感じるだけかもしれません、でもありがとうございます。そう感じることさえ今までしなかったから。お礼参りにいかなくては。ふと、ちえこさんのことを思い出した。目に見えない力にすがり、信仰をもつことは、もしかしたらよい行いなのかもしれないな。

スグナクマンが教えてくれたこと

それは小学生の頃、教室の隅におかれた児童文学書の本棚の中にあった。主人公はクラスメイトにいじめられていて、すぐに泣いてしまうおとこのこの物語。靴の中に大量の砂を入れられたり、給食の時間にスプーンがチョークの粉まみれにされたり、その物語の中に描かれていたいじめはひどくつらいもので、題名に「へんしん!スグナクマン」とあった。

わたしは結末を覚えていない。題名にはへんしん!とあるくらいなのだから、主人公のおとこのこは泣かないように強く、逞しく、なっていくのだろうか。もしくは泣いてしまうじぶんを受け入れて、泣き喚きながらいじめっこに立ち向かうのだろうか。

わたしはすぐに泣く。悲しくて、悔しくて、情けなくて、ときに嬉しくても、泣く。あらゆる感情がすべて、涙に変わる。先日23歳になったばかりなのだから、もうあまり人前で泣くことは普通じゃないことくらい重々承知しているのにもかかわらず、だ。泣いてはいけない。そんなこと言われなくてもわかっている。私だって泣きたくて泣いてるわけじゃない。抑えようとすればするほど、堪えるたびに。瞼の裏で涙が満ちていく感覚が分かるのだった。

泣かない人のことを強いと思う。とはいえ、すぐ泣く人のことを弱いとは決して思わない。すぐ泣くから物事を諦めたわけではないし、すぐ泣くから投げだしたいわけではないことを他の誰よりも分かるからだ。どうしようもないほど言葉にならない想いがあって、吐き出し方や伝え方が分からないから涙が出るのだ。

どういった作用が働いているのか分からないが、昔から泣き腫らしたあと、きまって力がみなぎるのだった。そしてほんの少しだけ、泣く前の自分よりもうまくできることが増えるのだ。よく泣く人にしか分からないと思うけど、「涙の数だけ強くなれる」ありきたりな慰めの一言は、真実だった。

へんしん!スグナクマン、泣ける勇気をたずさえて泣ける強さで、打ち勝って。

昨夜見た悪夢の話

そこは川沿いの広い道路、大勢の観衆がなにやらざわついている。そしてその様子をわたしはテレビの画面から眺めていた。よくある街の風景、だったはずだこの瞬間までは。うしろからズドンと大きな音がして、カメラが写したのは、ひとりの警官の姿。その手には大きな斧をもっていて勢いよく振りかざしたあとにみえた。返り血を顔にまで浴び、警察官の青い制服が赤黒く染まっていた。カメラが地面をうつすと血まみれの男がのたうちまわっている。びくんびくんと痙攣するたびに、体から血が噴き出している。警官はふるえる手で斧をにぎりしめたままその様子を呆然と見つめるだけだった。どうやらその警官は、本来そのようにして殺めるはずだった男をかばって飛び込んできた関係のない男に対して、思い切り斧を振りかざしてしまったようだった。慌てふためく観衆の声が悲鳴に変わる。わたしはテレビ越しから目が離せない。ただその男が息をひきとるまでを見届けた。目覚めると、10時を過ぎていてわたしは昨晩どうやら床で寝落ちていたみたいだ。なんて目覚めの悪い夢だろうとおもった。メガネより先にiPhoneを手にとって 「他人が殺される夢」を調べてみた。吉夢らしかった。最近の生活に関係のない描写ばかりで、本来ならば誰か他の人の夢であるはずのものを見ていたような気がしてそこはかとなく不思議だった。そして、言わずもがなもう二度と見たくない夢だった。

愛は四半世紀にも及び

朝怒鳴り声で目を覚ますこともしばしばあった、私たち以外の(テレビや物語の世界で見る)家族が正月や盆に親族一同があつまる習慣をふしぎにおもっていた、わたしたちは少しいびつで未熟だった。仲睦まじく寄り添いあうこともあるが離婚届けを目の前で泣きながら破りすてる母の顔を8回は見た。父は外に女がいる。目を細めて笑みを浮かべながら、わたしに知らない女の人と飲みに行った出来事を話してくれた。20数年変わらない貧しさ、家に増えるガラクタ。愛をもって我々はここまできた。どうしてそれができたのか、その答えや意味については大人になってから知った。母は23歳で家族友達を置いて故郷をはなれ、夫の手を借りずたった1人で子育てをし、義実家に罵られひどくおもい心の病を患った。母を思うと、ひどく惨めで胸がいたむ。叔母からあなたは命がけで育てられたのだと伝えられたのは随分と後からだったけど。そうなんだろうということは、もっと前からわたしは知っていた。

銀婚式をむかえた両親に、祝福をおくる。

両家はたいへん仲が悪く、母はとくに義母のことを忌み嫌っている。わたしに対しても義母に対する罵詈雑言を投げかけ、共感をもとめることもしばしばあった。あのクソババアが、あのクソババアが、と。わたしにとっては、幼いころから大切な祖母であるほかなので良い思い出しか見当たらず、そんな話を振られた時分には、曖昧にうなずくことしかできなかった。祖母の話をすると露骨に家庭内空気が悪くなることを幼いながらにも察し、口にすることはほとんどなかった。

たとえ伴侶の親であろうと一度恨んだらしぬまで恨み続けるのがわたしの母だ。嫌いな相手にも、好きな相手にも、執着するところは昔から人としてひとりの女性として、最も嫌いな一面でもあった。

母は、重度の精神疾患をかかえており、繰り返し引き起こされるヒステリックな発作によって浴びせられる理不尽に悩まされる幼少期をすごしてきたから極度に人を恐れ、そして人の痛みを理解できる人間にわたしは育ったらしい。母親に逆らうことのできなかったせいで、ずいぶんと遅れてやってきた反抗期もようやく終息を迎えようととしているがまだ怒りの感情をうまくコントロールすることが得意ではない。

父に他の女の存在がいることを知ったのは、最近のことだが不思議と何も思わなかった。ただバレなければほかにどういう悪事をはたらいていようとどうでもよかった。言ってしまえば、父にもあの母親以外にそういった安らげる場があるのならそれでいいとさえ。父は、わたしと母の前で理想的な父親を、旦那を振舞ってくれているから何も問題はないだろう。

そんな 普通 ではない家族が離散せず25年も続いたのには、おそらくわたしの存在が大きく関係しているのだろうという自負がある。そしてわたしはそれを、素敵なことだと思う。私が存在していなければ二人はとうに他人となっていたに違いない。

結婚になんの意味があるのかメリットがあるのかなんていくら考えても答えは出ない。経験したことがないからだろう。けれど、勘違いしてほしくないが、幸せな瞬間だって数えきれないほどあった。あまりにも壮絶だった幼少期の思い出が色濃くわたしのなかに残り続けているだけだ。そしてそれが消えることはないこの先も一生。

恋人が家族になる瞬間とはどんな気分なのだろうか、子供ができたらどんな相手でも関係を紡いでいかなければならない責任をわたしは感じられるのだろうか、分からないことばかりでどうにも遠い未来の、更にその先の話のような気もしている。自分には縁がないことなのかもしれない、少しの勇気と勢いでなんと大きなものを背負ってしまったのだろうと後悔することも少なくはないんだろう。そんな後悔さえも愛してゆきながら「続けていく」ことはなによりもむずかしい。

そしてそんな難しいことを25年もやってのけた両親のことは素直に尊敬する。家族となり、わたしをこの世に産み落とし、なかよく老けてゆく両親のようにいつかなりたいとおもった。双方の家族を愛さなくても、ほかに女がいようとも、一生向き合う病に体を蝕まれても、守るべきものがあれば家族になれる。そう教えてくれたふたりのすがた。

そんな、9月11日のこと。f:id:rccp50z:20190911005244j:image

選りすぐり

ぐったりと肩を落としながら、駆け足でバス停に向かう朝も、くたびれて重くなったからだを座席にあずける夜も、随分と慣れてきたところ。まだまだ道半ばで、息を切らし立ち止まる日もあれば、自分を奮い立たせながら歩を進める日だってある。一年また一年と、歳をとるスピードは着実に速くなっているようです。0〜20歳 までと 20〜死 までの体感時間はおおよそ同じだという話をどこかで聞いたこともある。きっとこの速さは日々を懸命に生きている証にちがいないんだろうなんて言い聞かせながら、今日もまたいつもの道を。ゴールが定められてる毎日は、迷わず歩けて心地がいい。

24歳、それは20代前半最後の年。なんだわたしも歳をとるのか、といつまで経ってもどこか他人事のように思ってきたけれど、徐々に遅れてやってきた精神年齢もようやくそこまで追いついてきたみたい。わたしの心は永遠の17歳、とか最近さすがに無理もある。ティーンエイジ特有のはじけ飛ぶような輝きは失われつつあって、ある程度の出来事は「経験済」の判を押されてしまった。もう些細なことでうろたえたりしないし、容易く人前で泣いたりしない。この精神を保ったまま、17歳の日々を過ごしてもひどく退屈で物足りないんだろうと思う。あの頃は手に取るすべてが新鮮で、輝いていて、いつも少しおびえていたのに。「経験済」のまいにちは繰り返され、磨かれてゆくのか。僅かな「未経験」を見つけるための人生か。

2年前の私はいう「バースデーケーキの上で揺らめくロウソクの本数には興味がない」と。そんな悠長なことを言っているとあっという間にケーキの上を埋め尽くして、たった一度吹き消したくらいでは消えなくなってしまう。相変わらず歳をとることになんの抵抗もないけれど、そろそろお肌の曲がり角がどうとか、傷が治りづらいとか、あの子も結婚したの?とかもう二人目もいるんですか?とかおまえはいつ結婚するんだとか、ほっとけよとか、何歳までに◯◯を成し遂げたいとか、脂物は翌日に響くねとか、膝が痛いとか、腰が痛いとか、そんなことばかり話題になったりするのでしょうか。

この歳になると、この先の人生を揺るがす重大な選択を迫られていたりする。そうしてわたしたちは殆どの場合、決定のための十分なリソースを欠いたまま、岐路に立たされることもしばしばある。「選択」は歳を重ねるたびに、厳選されていく。17歳の頃より使える時間に限りがあるから、選択肢はさらに狭まる。選びぬかれた選りすぐりの人々と関わり合い、選りすぐりのものを食べて、選りすぐりの経験をする。選ぶものさしも経験によって培われた自身の感覚で研ぎ澄まされていく。来年には来年のわたしが厳選した毎日が、景色が、関わる人々が、できごとがすべて、そんな分岐点を幾度も乗り越えながら構成されていくのでしょう。一瞬たりとて無駄な選択をしたくない。

できる限り正解に近いものを選んでいきたいと思うばかりだけど、選んだ時点でそれが正解とは限らない。だから人は恐れて、決定に時間を要するのだ。わからないのなら否が応でも正解にしていくほかない、どれが正解かなんてのは誰にもいつまでも分かるはずないから。

いま手元にある毎日が正解かと問われたら、力強くうなずける。なぜならバースデーケーキの向こう側に、微笑みながら祝福を手渡してくれる人々がいるからだ。ゆれるロウソクの灯を一度で吹き消すことができなくなった頃、向こう側には誰がいるだろう。ひとりでさえなければ、正解としよう。

それではいつもの参りましょうか、

かかってこい、まだ見ぬ未来。

トゲのある場所③

すぐシリーズ化してしまいます。

 

一年前のいまころはまだ見ぬ社会という広い広い海をみてこんなところ泳げるわけなどないと尻込みしていました。だけど時というものは残酷で、後ろから思い切り突き飛ばされて飛び込むことを余儀なくされた4月1日。時同じくしてその日、おなじようになんの装備ももたぬまま放り出されたたくさんの学生たちが、横を見ればすぐ近くにいた。

手を取り合って、とかそんな甘いものじゃない泳ぎの早いやつもいれば、深く潜れるやつもいた。わたしはどうだ、流されながら、深くて足のつかない場所を避けながら、声のするほうめがけて、必死にもがき進むしかできなかったようにおもう。

あれトゲの話ではなく海の話になっている。社会は海に似ている。先に島にたどり着いたひとたちから投げ込まれたつよくて丈夫な装備をきちんとじぶんのものにできるやつもいれば、それを取らないやつもいた。わたしはどうだ、投げ込まれたけどうまく掴めなかったりして、ほころびだらけの水着はなんとか手に入れることができた。そんなかんじです。

あっという間に目に入る景色、泳ぎ方が変わって向かうべき島の場所も、立ち泳ぎをしながらなんとかわかってきた気がする。あの頃のわたしとは絶対に違う。そう思わないと進んできた今までの航路がきっと無駄なものになってしまう気がしてなりません。

2019年4月、いよいようしろからまたなんの装備ももたぬまま投げ込まれた新人がやってくる。その新人はもしかしたらもともと泳ぎが早いやつかもしれないし、カナヅチかもしれない。

わたしにできること。ここまできた航路をおしえてあげること。誇りを持って更に前へと進み続けること。

おぼれることも、道を逸れることもあるけれど、どうにかして後から来た者に抜かされぬようもがき続けるしか選択肢はないようです。

抜かされることに怯えて手を動かすことをやめてしまわないように。海はいつまでもどこまでも続いてゆくのです。

いつかあの人たちがいた場所へ、あの人たちがみた景色へ、気がついたら辿り着いていたい。